
ひとり飲みでも気兼ねなくリラックスできるもてなしに身をゆだねながら、日本酒通なら美酒探訪マップが大きく広がり、初心者なら酒への好奇心がぐんと増す。さらには、呑兵衛の心と肝臓が感涙……。島根県の銘酒を数多く揃える「酒匠の店 佐香や 東本町本店」で、旨し海の恵みをはじめとする美味とともに松江の夜を満喫したい。
八百万の神が酒を造ったと記された「出雲風土記」など古くからの伝承をもとに、島根県は日本酒発祥の地とされる。その酒造りの要となった神さまを祀る、出雲市の佐香(さか)神社の名をいただいたのが、松江市の歓楽街に立つ「酒匠の店 佐香や 東本町本店」だ。全28軒ある島根県の日本酒蔵のうち17軒の酒を多彩に取り揃え、県外の銘柄も含めた冷酒と冷や(常温)を合わせた1升瓶のストックは、なんと約100本を数えるという。
酒のメニューを手にすれば、心躍りつつも迷うのは確実。まずは地元の醸造所「松江ビアへるん」のビールで、喉を気持ち良く潤したい。醸造所の名は小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが、松江で「ヘルン先生」と呼ばれていたことに由来。そう、2025年10月スタートのNHK連続テレビ小説「ばけばけ」の主人公のモデル、小泉セツのご主人ですよ。ドラマを介してヘルン先生の人生や日本文化を慈しむ姿にふれれば、味わいと感慨は深まるだろう。
そして、日本酒へ。とはいえ松江市内で醸される「豊の秋」(米田酒造)、「李白」(李白酒造)に限っても、酒類は豊富。店長の朝山崇さんに好みを告げて相談するのが、迅速かつ確実に幸せを呼び寄せる術となる。2009年の開業後ほどなく、この店で働きはじめた朝山さんは、難易度の高いテイスティング試験をクリアした酒匠の資格を持つ、たいそう頼れる存在なのだから。
島根の酒は米の甘味や旨味がふくらむタイプが多いが、いい塩梅に酸を含んでいるため名残はきれい。だから、ついつい盃に手が延びる。くいくいっと飲むうちに、その米の存在感はぐいぐいっと食欲を刺激する。というわけで明け方に揚がった新鮮な日本海の魚の刺身を合わせたところ、おおっ、おおっと、言葉にならない感動があふれ出た。島根はプランクトンが豊富な豊かな漁場に恵まれ、たとえばアジやイワシは脂ノリノリとろ〜り、白イカはむっちりしんなり、口と心を征服。そこに酒を流し込めば、ああ、甘美なり。
銘柄鶏の「大山どり」も、逃さずに。広く流通しているため、近所でも食べられるよねと思う方がいるかもしれないが、ぜひとも!地元ゆえに鮮度が違うのだ。だから、おいしさが違うのだ。ぷくんと弾むレバーの塩焼きを食べれば、開眼。砂肝やモモ肉といった、ほかの部位も試したくなるだろう。
この店では、燗酒も看板の一つ。低温では眠っていた酒の味わいが温度の上昇で花開くので、冷酒や冷やと飲み比べるのも愉快。日本酒をあまり嗜まれない方でも、風味の立ち方の異なり具合はわかりやすい。加えて、温もりを得たことで魚や鶏の旨味と溶けあう一体感もアップ。ほわ~んじわ~んと幸せが広がり、気持ちがゆるんでいく。
もっともっと奥へと進みたいという方は、熟成酒もお試しあれ。長い歳月が育んだ、貴重な一杯。深みをたたえたおいしさが、美酒の世界をさらに切り拓いてくれる。
珍味を含めた料理の多くは、ワンコイン前後の価格。島根県の特産品であるトビウオのすり身を炭火で炙った「あご野焼き」や、松江市美保関地区に昔から伝わるサバの塩辛など、旅してこその美味もメニューに並ぶ。
客席はカウンター8席と、こぢんまりした小上がり。日々賑わうなか、朝山さんがワンオペで調理からもてなしまでこなすのだが、忙しさを感じさせないあっぱれな動きなので、見ているこちらも落ち着いて飲み続けられる。合間にはおすすめを案内してくれたり、リクエストに耳を傾けてくれたりと、目配りや気配りもしっかり行き届き、程よい押しの加減&実にうれしそうな表情であれこれ語ってくれるから、ひとり飲みでも自然と店に馴染んで和めるのがいい。
締めは手打ち割子そばや「ネギたっぷり醤油ラーメン」といった気になる品もあるのだが、できればおにぎりを。島根はね、米も旨いのですよ。そして、宍道湖のシジミの汁を合わせるべし。丼ものをよそうような大きめの器で、ふたを空ければ湯気がほわほわん。塩と醤油でシンプルに仕立てた汁は、五臓六腑にしみるしみるしみる……。大粒の実を噛みしめて、口中は旨味の湖と化す。日頃から献身的に働いてくれている肝臓も、健やかなオルニチン摂取にうれし涙を流すことだろう。
店は深夜1時までの営業。遅めの時間でも、癒しの場があるのはうれしい。たまたま隣り合ったおひとりさまは、松江出張のたびに立ち寄ると顔をほころばせていた。わかる!松江での仕事を入れたい気持ちになったもの。旅先で通いたくなる店が増えていくのは悩ましく、しかしながら実に幸せなことだ。
文:山内史子 写真:松隈直樹