
全国的に、ホテル代の高騰を嘆く声が高まっている。ならば、視界を広げよう。自分の思うままに動ける自由度の高さは、ひとり飲みゆえのメリットなのだから。例えば福岡出張なら、博多駅から電車で数十分の佐賀県は鳥栖駅へ。宿泊費が抑えられる上、「あげまき」という知る人ぞ知る名店と銘酒との出合いが待つ。
ここ数年、長年頼りしていた宿の料金がいつしか爆発的にアップし、切ない思いにかられることが増えてきた。とりわけ都市圏では、予算に見合うホテルを選ぶと、最寄り駅や仕事先だけではなく、肝心の夜の賑わいからも離れる事態になりかねない。しかしながら例えば福岡出張の場合、お隣の佐賀県・JR鳥栖駅前なら控えめな価格のビジネスホテルが複数立ち並ぶ。博多駅からは、特急なら約25分、快速や各停でも約40〜50分で、ありがたいことに電車の本数も多い。
鳥栖は観光客が押し寄せるエリアではないものの、サッカーファンならサガン鳥栖の本拠地としてご存知だろう。九州北部における物流の拠点でもあるが、呑兵衛、あるいは食いしん坊の皆さまには、「あげまき」というすばらしい和食店がこの街にあることを、心に太字でメモしていただきたい。
創業昭和32年の店は現在、3代目の武冨喜一さんを要にご家族で営む。一枚板のカウンターが奥まで続く空間と、重みを感じる特注の桜材の椅子には一瞬、臆するかもしれない。しかしながら腰掛けた瞬間、椅子はしっくり体に馴染み、さらには壁を覆う品書きを前に脳内はたちまちお祭り騒ぎに。まずはビールなどで喉を潤して心を落ち着かせ、その眺めに酔いたい。実に美しく、そして見るほどにすこぶる悩ましい。
メニュー数は、常時約60種類。魚介類、肉、野菜、刺身から揚げもの各種、煮物……。欲望の渦に巻き込まれるが、「いろいろと召し上がっていただきたい」との思いから、量の調整を相談できるのがひとり飲みにはすこぶるうれしい。
とある夏の夜のひとときを振り返れば、魚はカンパチ、本マグロ、クジラ、スズキ、ハモ、コチ……。野菜はズッキーニやアスパラガス、トウモロコシ……。チキンカツや唐揚げといった鶏肉、生姜焼きや塩焼きなどの豚肉の料理も充実しており、枝豆やワカメの酢の物、ポテトサラダといった脇を支える品々にも目移りする。
魚介類や野菜を含めて食材の質の良さが感じられるのは、先代の頃から続く仕入れ先との信頼関係が礎にあるのだろう。さらに武冨さんは午前中から、はたまたときに休みの日にも徹底して仕込みに時間を費やす。魚介類の脱水をはじめ、それぞれの旨味を引き出す陰ながらの尽力がおいしさの柱なのだ。料理の仕立てはシンプルながら、調味や自家製ソースは思わず「おっ」と笑顔になるおいしいインパクトがあり、ひと味巧みに違うと思わせるような秘めた技を感じる。すなわち、なにを頼んでも食べても、小躍りしたくなるほど旨くて愉快。ゆえに「ここでなくても……」と、あえて計画からはずしていた海老フライなんぞも、次第に気になってしょうがなくなる。
日本酒、焼酎、ワインのほか多彩に揃うアルコール類のなかであらたな出合いを楽しみたいのは、鳥栖市のお隣・基山町で明治初頭から酒を醸してきた基山商店の日本酒「基峰鶴」。一帯の晩酌の友として長年親しまれてきただけあって、米の味のふくらみやのど越しは程よく気持ち良く、さりげなく心身にしみていく。だから、すいすいすいっと飲んでしまう。多様な料理を引き立てるバランス感覚も見事で、そのしなやかさにも惚れる。そしてまた、すいすいすいっ……。
客席はカウンターに加えてテーブルが2卓。2階の座敷は宴会や家族の行事など、集いの場としても頼りされている。駅からは適度な距離があるため、ふらり通りすがりにというケースは少ない。なかには三代、四代と通い続ける方もいる客のほとんどは常連さんで、料理や酒は日常的に通っても安心できるような価格帯のものが多い。
店内で顔見知りと目が合い、そっと会釈を交わす場面も見られるが、その後は互いに干渉することなく穏やかに過ごす。地元の方々がそれぞれに大切にしている憩いの場なのだが、家族での商いゆえの気張らないもてなしとも相まっての和んだ空気が、初めてであってもひとりであってもやわらぎをもたらし、ゆるり心地よく過ごせるのがなによりも大きな魅力だろう。
鳥栖宿泊には、さらなるポイントありなのも記しておこう。朝食はホテルではなく、構内やホームに店を構える明治25年創業の中央軒にぜひ。昭和31年に九州初の立ち食いうどんとして提供された「かしわうどん」をすすれば、ほんのり甘いつゆがやさしくしみるのだから。
それはさておき、あげまきではガーリックライスや高菜めし、焼きそば、ときにカレーなど、締めの品々も逃せない。ひと晩での制覇は困難だし、おそらく途中からホテル云々に関わらず、再訪を思う野望がふくらむはずだ。品揃えは季節の異なりだけではなく、仕入れの状況などにより日々、入れ替わる。加えて、新メニューも随時追加。というわけで幾度訪れても、品書きを前に心は大きく揺さぶられ、夜の計画を熟考する喜びは尽きることがない。ご近所さんが、心底うらやましい。
文:山内史子 写真:松隈直樹