
食いしん坊倶楽部のLINEオープンチャット「ナチュラルワイン部」では、今後、メンバーから寄せられた「ナチュラルワイン愛のある注ぎ手」を徹底取材してお届け。第4回は、鎌倉から西へ20km離れた平塚で再開した『binot』(ビーノ)の阿部剛さんです。
かつて鎌倉にあったワインバー「binot」が、2年の空白を経て平塚でリスタートをきったのは2023年のことだ。静かな裏通りに建つマンションの一階。場所は変われど鎌倉時代同様、カウンタ―主体の小ぢんまりとした居心地のいい空間で、店主の阿部剛さんは日々おいしいつまみをつくり、ワインを注いでいる。
阿部さんとワインの関係を語るうえで、“満月ワインバー”のことは外せない。今から15年ほど前、石井英史さん(現在、鎌倉「祖餐」店主)とともに立ち上げた満月ワインバーは、満月の夜にナチュラルワインを愉しむイベントで、東北の震災をきっかけに日本各地へ広がった。満月の下、酒場に集まってワインで乾杯するというひとつのムーブメントが興ったのだ。
そんな宴の生みの親である阿部さんだけれど、意外にも「昔はワインが苦手だった」とか。開眼したのは、東京から鎌倉へ越すタイミングでのこと。
「当時、石井くんがいた鎌倉のワインバー『ボータン』で、ビールばかり頼む僕に彼が勧めてくれたんです。工業的ではない、自然な造りのワインを。それが、くさかった。土っぽくて心地よくくさかったんです。美味しかったなあと3日後に思い出すような、しみじみとした味でした」。舌に、身体に訴えてくるものがあり、またたく間に虜になったという。
だから、「今のうちのハウスワイン的存在」だと注いでくれた一杯をほんの少し意外に感じた。カリフォルニアの都市型ワイナリー、ブロック・セラーズの赤ワインは、どちらかといえばクリーンな味わいだったからだ。
「平塚で再出発する前、ワインを飲むことからも離れていた時期があったんです。その頃、久しぶりに飲みたくなって鎌倉の酒販店『湘南ワインセラー』で手にしたのがこれ。特に何も考えずに口にしたんですけど、しみじみ旨いなあと。ネガティブな要素がなくてクリアだけど、クリアすぎない。本当に絶妙。今、僕の味の軸になっている1本です」
少し前まではそれこそ、心地よくくさかったり、揮発酸をばしばし感じたりする味こそがナチュラルワイン“らしさ”で、良くも悪くも“変態ワイン”なんて言われ方をしたりもした。もちろんそういう味わいも魅力的だけれど、時代とともにワインの潮流も変わる。「今は強い還元香などのネガティブ要素が出ないよう改善したり、クリーンな味わいを目指す生産者が多く出てきましたから」。名刺代わりの一杯は、歳を重ねたことで味覚も変わったという阿部さんの等身大のセレクトだった。
変わるものもあれば、変わらないものもある。フレンチ出身の料理人である阿部さんがつくるアテだ。小皿主体のメニューは、どれも相変わらず丁寧な仕込みが冴えわたっている。
小田原沖で獲れた真アジのマリネや、熱海で捕獲された猪ミートソースのパスタなど、地元の食材にフォーカスしたつまみも色々ある。なかでも、長らく畑を耕している野菜好きの店主がつくる野菜メニューは格別。定番の白インゲン豆とピスタチオのパテや、旬の野菜を盛り込んだラタトゥイユなど、レストランで味わうレベルのおいしさなのだ。
さて、畑だ。今は10坪ほどの小さな畑を耕す阿部さんだが、一時は本気で就農を考えたほどにのめり込んでいた。
「なのに昔の僕は、ぶどうのことを何一つ知らなかった。その頃すでに満月ワインバーも始めていましたけど、まるで知らなかったんです。とあるイベントの打ち上げで、ぶどうは果樹だから野菜みたいに土を耕したりすき込んだりする手間がなくて楽そうですよね、ってドメーヌ・オヤマダの小山田さんに言ったことがあるんですが、殴られそうな勢いで睨まれて」。当たり前ですよね、と苦笑いしながら振り返る。
それからの阿部さんは、小山田さんの畑を皮切りに、山梨や北海道のワイナリーへ定期的に通った。下草刈りやぶどうの房を雨から守る袋掛け作業など、果てしなく続く畑仕事を、一端ではあるけれど身をもって知った。そんな経験を積み重ねての今。何か変わったことはあるか尋ねると、熟考の末に「ひと言の重み、かな」と返ってきた。決して多くを語るタイプではない。だからこそぶどう畑の背景を知ることで、「ワインを注ぎながら、そのよさをぎゅっと凝縮して伝えられるようになった気がしています」と微笑む。
国内の造り手に関わる機会が多かった影響もあるのだろう。目下の目標は、扱うワインの1/3を大好きな日本のナチュラルワインにすることだと阿部さんはいう。
「僕は英語が喋れないしフランス語も片言だから、来日した生産者と会っても愛想笑いで終わってしまう。でも、日本のワイナリーの方とは深いところを話せるわけです。畑に行って、ぶどうがどうだ、醸造はこうだと聞かせてもらって、収穫を参加させてもらったワインを飲むと、やっぱりシンプルに感慨深いんですよね」
カウンタ―に並んだのは、とくに思い入れがあるというこの3本。山形県上山市で100年以上続く大御所「タケダワイナリー」の発泡ワイン。阿部さんが10年以上通い続けている北海道函館のワイナリー「農楽蔵」の赤。そして、三重県名張で挑む若手注目株「國津果實酒醸造所」の白ワイン。
「とくに未来の担い手である若い人は応援したい。10年後はどんなワインを造るんだろうとワクワクしながら取引きをお願いしているくらいです」と、もはや推し活の域。
店に立ちながらぶどう畑に通い続けた阿部さんには、鎌倉時代から温めていた構想があった。
「造り手たちの作業に寄り添い、預けてもらったワインを、ボトルごとお客さんに届ける立場になりたい」との想いから酒販免許を取得。店内の一角にワインセラーを設け、新天地で酒屋もスタートしたのだ。ボトルのネックに下がっているのは、テイスティングコメント付きの手書きの値札。棚に並ぶのは、産地を訪れた日本のワイナリー産に、つきあいの深いインポーターのワイン。手渡すのはボトルであっても、気持ちのうえではグラスに注いでいるのと変わらない。
土を耕して種をまき、地道に作物を育てるようにワインの輪を繋げてきた。そんな阿部さんが注ぐ液体には、まっすぐなワイン愛が染み込んでいる。
文:安井洋子 撮影:長野陽一