
食いしん坊倶楽部のLINEオープンチャット「ナチュラルワイン部」では、今後、メンバーから寄せられた「ナチュラルワイン愛のある注ぎ手」を徹底取材してお届け。第2回は、神楽坂の隠れ家的な店でワインを注ぐ『ACIÉ』(アシエ)の岩井悟さんです。
東京都新宿区若宮町12‐1。この住所をスマホで検索して神楽坂駅から店に歩いて向かっても、最初はすんなりと辿り着けない。え?ここ?という路地裏の突き当たりにある駐車場。その一角に『ACIÉ』はある。何か物語が立ち上がりそうな場所に建つ一軒家を、ひとめで気に入ってワインバーを開いたのはオーナーの岩井悟さん。アンティークのカウンター越し、長身の彼がワインを注ぐ所作は美しい。アートやドライフラワーが飾られたモダンな空間がとてもよく似合う。
聞けば、美大を出てから服部調理師専門学校へ進み、25歳で名フレンチ「フロリレージュ」へ。サービスに従事し、ノンアルコールペアリングを担当しながら、ワインのことも体系立てて学んだという。それがワイン人生のスタートになった。
「僕は扱いづらいワインを好んで使う傾向にあるかもしれません」
岩井さんが「うちの店を表しているワイン」だと注いでくれたのは、フランスはラングドックのドメーヌ、ラブシュルド ジェニ デ フルールの可憐な赤、アールク。
「非常に線が細く、酸化するのも早い。けれど、そんなあやうい感じも美しさのポイントだと思っています。グラスに注いで30分後にはピークが過ぎてしまう。注ぎ手にとって難しいワインですが、そういうものだからこそ語り継いでいきたいし、お客さんがどう感じるか対話しながら注ぎたい。そう感じるワインです」
岩井さんのワイン愛は情深い。たとえばマメ臭について。できるだけ人為的な造りをしないナチュラルワインは、だだちゃ豆に似たマメ臭と呼ばれるにおいの出てしまうものが、ひと昔ほどではないにせよ、ある。
「でも、マメるってこと自体を決して悪いことだとは思っていません。造り手が酸化防止剤を極限まで入れないと決めた魂の形だと思うし、エネルギーの爆発している瞬間だとも思う」
そんなふうに、独特の感性で捉えている。マイナスといわれる要素でも、決してネガティブなものではないと。
提供するのはワインにとどまらない。コーヒーも、そして料理もひとりでこなす。小さな厨房にガス台はないけれど、オーダーが入るたびに棚からガスコンロを取り出し、メイン料理もさらりと仕上げるのだ。真骨頂はレストラン時代に磨いたペアリング。「料理に合わせて注いでください、っていわれると嬉しくなりますね」と微笑む。
シュークルートを添えた鶏むね肉のアロゼには、アルザスの造り手、クンプフ・エ・メイエのふくよかなイヤ・プリュ・カを。カツオとイチゴ、異色の取り合わせの前菜には、ラブシュルド ジェニ デ フルールのワインを。その、鮮やかなほどの調和といったら!余韻まで綺麗で、思わずため息がこぼれてしまう。
「“欠け”という言葉が好きです。基本的にはネガディブな表現だと思いますが、欠けがあるということは、何かでまだ満たせるということ。たとえばカツオもいちごも何かが欠けていて、ワインもそうで。欠けているもの同士がカチッとはまった瞬間に新しい美しさが生まれれば……そんなふうにペアリングを考えています」
レストラン時代にグランヴァンを叩き込まれた岩井さんには、ナチュラルワインに開眼するきっかけになった1本がある。フランスはアルザスの偉大なる造り手、ジェラ―ル・シュレールだ。
「ワインを体系立てて覚えると、それ以外はよくないものなんだと認識してしまう気がするんです。人間の脳のつくりとして。僕もナチュールを飲み始めた頃は、やっぱりグランヴァンはおいしいよなと頭の中のどこかで思っていました。それを、いい意味で破壊して再構築してくれたのがジェラール・シュレール。潔癖性を求めるクラシックワインは丁寧な味わいのなかに、どこか機械的なものを感じるんですが、シュレールはただただ丁寧で清らか。年輪みたいなものを感じて。初めて口にしたとき、稲妻が落ちるような衝撃で、味で体にわからせられました」
そうして流れるようにナチュラルワインの沼にはまっていった岩井さん。格別に好きなワインを注ぐときは、テンションがあがってサングラスをかけてしまう。といって手にしたのは、フランスはジュラのレジェンド、ピエール・オヴェルノワの1本。
「それは人生2回目のオヴェルノワを飲んだときのこと。以前、働いていたお店をやめるタイミングだったのですが、お店をやめる悲しみとか日々のいろいろを一瞬忘れるような、体を通して透明になれたような。あの衝撃が忘れられなくて、いまだにそのときに飲んだボトルを店に飾ってあるくらいです」
オープンしてから2年間は看板のひとつもなかった。最近ようやく、どんづまりの少し手前に看板らしきものを置いた。そこには、疲れていたらちょっと休みませんか?という内容の短いメッセージが英語で綴られている。ふと、自然由来の治療薬を指すレメディという言葉が思い浮かんだ。開店は午後2時。何かに疲れたら、いや疲れていなくても。昼下がりからでも仕事帰りでも。秘密めいた『ACIÉ』のワインで舌も心も潤したい。
文:安井洋子 撮影:長野陽一