
圧倒的な知名度を誇るスター銘柄「十四代」(山形県村山市)のデビューは1994年。かつてない斬新な味わいで、日本酒ファンの心を一気にわしづかみにする。老舗酒蔵の25歳の跡取りが自ら酒造りを行なったことも当時は異例で、大きな話題を呼んだ。以来30年余り、流行に捉われることなく、独自の美味しさを追求し続けて来た十五代蔵元・高木辰五郎さん(当時は顕統=あきつな)さん。その姿勢は、酒蔵の若い跡取りたちに刺激を与え、日本酒業界に様々な変革をもたらしている。高木さんの登場で、日本酒の世界がどう変わったのか、他の蔵元や酒販店、飲食店の声を交えて紹介するこの連載。第2回は、杜氏の突然の引退で、急遽、東京の勤め先を辞して家業に就いた高木さんが、父から酒を造るよう要請された1993年の秋から辿りたい。
杜氏が去った酒蔵で、予期せぬ醸造責任者を務めることになった高木さんだが、造りたい酒は明確だった。イメージしたのは早朝、酒蔵に漂う蒸し米の匂いや、蒸した米を掌でつぶした“ひねり餅”をかんだときに口に広がる甘味。酒蔵で感じる心地いい風味や、米の酒ならでは旨味や甘みを表現することで、日本酒の魅力を世に問いたいと考えていた。それは当時流行していたすっきりとした辛口の対極ともいえる酒だったが、「自分が信じる旨い酒を造って、お客様に喜んでもらうことが蔵元の使命だという一心でした」。
東京農業大学で醸造学の理論は学んだが、酒蔵で酒を造った経験はない。早朝から深夜まで慣れない力仕事が続く初めての酒造りは過酷だった。なにより失敗できないという心労が大きく、酒造りを終えた春についに入院してしまう。命懸けで醸した酒は、代々の銘柄「朝日鷹」ではなく、「十四代」として発表。するとベテラン杜氏が造る酒にはない若々しく、溌剌とした味わいで、中取り純米や中取り純米吟醸など初年度に造った4種のデビュー作は大ヒットとなる。
さらに翌年、世に出した本醸造酒(現在は特別本醸造)「本丸」で、業界に激震が走る。当時、上質な酒といえば4合3,000円以上の高価な大吟醸酒とされていたところ、ほのかな吟醸香が漂う洗練された味の本醸造酒は一升2,000円を切るコスパの良さで大ブレイク。“価格破壊だ”と業界を震撼させたが、上質で、リーズナブルな日本酒が次々と登場するきっかけともなった。
値付けについて高木さんは、「酒類売り場で接客した経験から、良質で買いやすい価格の酒の需要を感じていた」と説明。「本丸」という親しみを感じるネーミングや、本丸のラベルに記された「秘伝玉返し」、純米酒に添えられた「中取り」など、消費者の心をそそるキャッチも話題になる。
3年目には、「山田錦」「雄町」「八反錦」「愛山」など異なる酒米を使って仕込んだ純米吟醸酒のシリーズを発表。黄色や緑、桃色など鮮やかな地に、金銀を配した色違いのラベルは売り場でひときわ目を惹いた。現在では、珍しくもない米の品種別の展開や、色違いのラベルも、当時はほとんど類例がなく、目新しかった。
「お客さんには、選ぶことも楽しんでもらいたい」と話す高木さん。独自の着眼点で、次々と魅力的な商品を送り出し、ファンを獲得してきたのだ。
幼いころから培ってきた“絶対味覚”を指標に、流行に惑わされることなく、自分が信じる旨い酒を造ってお客さんに喜んでもらいたい。その初心を忘れず、酒造りに邁進してきた高木さん。後輩蔵元の多くが、その姿に刺激を受け、目標としてきた。「十四代という存在がなければ、自分で造ることは考えなかったかもしれない」と語る蔵元は数多く、筆者の知る限りでも一桁では収まらない。あなたが熱愛する“推し酒”も、「十四代」に触発された蔵元の作品かもしれない。
※連載3回目以降は「十四代」に影響を受けた方々のストーリーを紹介していきます。
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ネット上で正しく表示されない可能性があるため、「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文:山同敦子 撮影:たかはしじゅんいち、山同敦子(トップ画像撮影・たかはし)