
映画やドラマに登場する「あのメニュー」を深掘りする連載。第47回は実話をもとにした天才パティシエの物語です。
実在の天才パティシエ、ヤジッド・イシュムラエンの自伝をもとにした本作。アルコール依存症で精神不安定の母親のもと、幼少期からのヤジッドの半生は過酷で目を覆いたくなる。そんな彼に手を差し伸べてくれたのが里親ファミリーだった。ヤジッドにとって里親一家と手作りスイーツを囲む時間が唯一の幸せであり、いつしか最高のパティシエになり、自分の人生を切り開こうと強い情熱を持つようになる。
児童養護施設で暮らしていた10代に最初のチャンスが訪れた。高級レストランの見習いに採用され、180kmも離れたパリの店へ通い必死に学び続ける日々が始まった。その後も仲間に妬まれ失業の憂き目にあったり、住む家もなく野宿しながらホテルに勤めるなど困難が続く。しかし彼のパティシエへの情熱と努力はすさまじく、言葉を失ってしまうほどだ。
修業中のヤジッドは、閉店後も厨房でスイーツを作るのが日課。ある日も夜の厨房で、夢を共有する同僚と腕を磨き合っていた。目にも留まらぬ速さでひたすら生クリームを泡立てるヤジッドは、まるでアスリートのよう。そして、その生クリームを味見した同僚は、あまりの美味しさに驚愕する。
「やりやがった。材料は同じなのに」と、同僚。
「言ったろ。シンプルさがカギだ」ヤジッドが返す。
「ウソつけ。何を入れた?」同僚の興奮は収まらない。
そして二人は固く誓いあう。
「俺らはやれる」
「成功するぞ」
そんなある日、店でちょっとした事件が起きる。舌の肥えた常連客から、あるパティシエが作ったスイーツがおいしくないと突き返されてしまった。そこで客のお気に入りのヤジッドに白羽の矢が立ち、作り直すことになる。
メニューはフランスの代表的なお菓子である「パリ・ブレスト」。パリと、ブレストという街の間で行われる自転車レースにちなんだスイーツで、車輪をモチーフにリング状のシュー生地が使われる。しかしヤジッドは、伝統を換骨奪胎した独創的なパリ・ブレストを得意としていた。彼の手から生み出されるそのお菓子がとても美しい。
厨房にたくさんのボウルが並び、流れるような作業が始まった。ヤジッドはドライアイスで冷やしたボウルの中から、半球型に固めた生地を取り出した。真ん中に楊枝を刺し、チョコレート液を満たしたボウルに浸し、チョコレートがムラにならないよう慎重に回しながら皿に置く。球状の面に光が集まりキラキラ光っている。その周囲に砂糖で丸いリングを描き、軌跡の上にキスチョコ型の白いメレンゲをひとつ。チョコレートのてっぺんに金箔をひらりと載せると、まるで惑星のような姿が現れた。つやつやなめらかなチョココーティングの表面に、リゾートホテルの空と植栽が映り込み、神話のような逸品が出来上がった。
客は、ヤジッドのパリ・ブレストの上からそっとスプーンを入れた。カチリと音がして割れ、キャラメルソースがあふれ出る。客のスプーンに、チョコレート、キャラメルソース、チョコレートクリーム、そして土台のチョコレートサブレが4層のグラデーションを描いている。これらが口の中で溶け合い、至福のハーモニーを奏でる。
さらにサプライズは続く。客は白いメレンゲをトングで挟みドライアイスの中にそっと浸す。そのまま口に運ぶと温度差で口からポワっと白い煙が立ち上る。味覚、触覚、食感、温度、その変化とバリエーションを存分に楽しませる仕掛けだ。客は文句を言ったことも忘れて大満足だ。
「パティシエでなくアーティストであれ」
「冒険家であれ」
尊敬するシェフのこの言葉を胸に努力を続け、パティスリー世界選手権にチャレンジするチャンスを得るヤジッド。ついに史上最年少で、チャンピオンに輝くのだ。彼が駆け抜けた成功までの道程にスイーツが宝石のように輝いて、険しかったはずの道のりがとても美しく見える。
文:汲田亜紀子 イラスト:フジマツミキ