「日本酒を変えた」男 ~神亀・小川原良征“センム”の軌跡~
神亀は名店「人形町きく家」に寄り添う、無二の食中酒➁

神亀は名店「人形町きく家」に寄り添う、無二の食中酒➁

開店から40数年を経て、今も多くの愛飲家に支持される酒亭「人形町きく家」。親方・志賀真二さんと女将・キエさん夫妻が1980年代半ばに「ほかにはない味わい」として惹かれたのが、神亀酒造の純米酒だった。 最初は酒との出会い。やがて、その造り手にも惹かれた2人は、蔵元の小川原良征さん(=センム)との親交も深めていく。店と酒、造り手と料理人のパートナーシップは、30年を超える長きにわたって育まれた。

「この蔵で深く学びたい」と、夫婦で蔵に通いつめた歳月

きく家の親方・志賀真二さんと女将・キエさんとが神亀酒造と出会って2年目。「この蔵の酒造りを学びたい」と希望した2人は、寒仕込みの1月~3月には店の定休日の日曜日が来るたびに蔵へと通った。
キエさん曰く「恋愛と一緒でね。こちらが好きになったら、相手はどうかわからないけれど(笑)入りこんでしまうというか……」。

毎週土曜日は営業を終え、片付けを済ませたあとに店で仮寝をし、翌日の明け方上野駅へと向かう。始発の電車に乗ると6時には蓮田駅に到着し、駅から歩いて神亀酒造へと向かうと6時半から蔵の仕事を見ることができた。
何せ夜中の3時から仕事を始める蔵なので、作業の最初からを見るわけにはいかない。しかし時にはきく家の若い衆にも夜明け前から始まる蒸し米~引き込みの作業を見せたいと考え、深夜に蓮田へと移動したこともあったという。

「若かったから、できましたね(笑)。それまでは全国各地の蔵を廻っていたのですが、神亀さんと出会ってからは、この蔵に通って深く学ばせてもらいたいと思いました。学ぶからには最低5年は通いたいと思いましたが、結局はそれ以上通うことになりましたね」とキエさんは言う。
神亀酒造へと通う理由は、学びたいという気持ちだけでなく、もう一つあった。センムの妻、美和子さんが家族、蔵人の食事を朝昼晩の3度作り、なおかつ、酒の販売店の店番もこなす多忙さを見るにつけ、何か手伝いたいという気持ちにかられたからだ。

「店からはあまり重いものは運べないから、乾物とか軽いものを持って、蓮田の駅前のスーパーでちょっとしたものを買って、野菜は神亀さんとこの畑のものを使って。親方と私とで、日曜日と翌日分くらいはまかないの作り置きをしてました」。
月曜から土曜日までは、自分たちの店の営業をこなす志賀夫妻にとって、日曜日は貴重な休養日のはずだが、2人とも同じ気持ちで毎週蓮田へと向かった。

赤身のマグロ
赤身のマグロ。親方が「マグロを食べない日はなかったんじゃないの」と笑って懐かしむほどのセンムの大好物だった。
湯豆腐
湯豆腐。「豆腐以外のものをごちゃごちゃ入れるな」というセンムの好みのとおりに、鍋の中は豆腐とネギと醤油のみでシンプルに。

親方には「酒造りは体験しないとわからない」という気持ちもあり、杜氏、蔵人さんたちと蔵内や休憩所で1日の大半を過ごした。「見学させてもらうからには、何か手伝いたいと思ってね。その頃は、まだ、石川達也さん(現・月の井酒造店杜氏)も神亀で修業中でね。あとになってから『きく家さんが来てくれた日は楽しかったな』なんて言ってくれてましたよ」。

作業を終えた蔵の人たちが食事を終え、休憩時間の仮眠に入ると、親方はまかない作りに入った。人形町きく家の味が蔵のまかないになるとは、なんとも贅沢な話だ。立ち働く親方のところにセンムがやってきて「何か手伝おうか」と言ってくることもあったそうだが、「いや、いいですって断ったよ(笑)。センムも疲れてるんだから」。

まかないを作り終え、しばしセンムの自宅で談笑し、翌朝の仕事を控えた夫妻が東京に帰ろうとすると、センムは不服そうな顔になり「なんだよ、もう帰っちゃうのかよ、もっといろよ」と必ず引きとめたという。人見知りで、恥ずかしがり屋で、けれど人好きで、寂しがり屋でもあったのだ。

日本酒
写真左は、夫妻で惚れ込んでタンク1本を買い取ったこともある「ひこ孫」純米吟醸(7号酵母)。中央は、徳島の阿波山田錦×7号酵母使用の純米吟醸槽口酒「力」。右は、鳥取県「田中農場」の山田錦×9号酵母使用の純米吟醸槽口酒「山アリ谷アリ」。

毎週通っていくうちには、当時は健在だったセンムの祖母のくらさんとも親しくなった。
「仲良くなると、くらばあちゃんの台所を使わせてもらって、俺は湯豆腐を作ったりね。おばあちゃんは、まあ、かっこいい人だったね。かくしゃくとしていてね」(真二さん)。

キエさんは、甑倒し(こしきだおし。今期の仕込みのための蒸し米作業がすべて終了し、甑を倒して酒造りが一段落したことを慰労し、祝う宴席)の場で見かけた、くらさんの様子が忘れられないという。
「おばあちゃんが『皆さん、お疲れさまでした』と、それがもう素晴らしい挨拶でしてね。場がピシッと締まりました。そのあと最初に杜氏さんにお酒注いで、次に若い衆にお酒注いで、それでみんながわあわあ飲んでいると、いつの間にか何気なくスーッといなくなる。うわあ、かっこいいな、すごい人だなと思いましたね」。

酒造りの時期が過ぎると、時間のできたセンムと親方の故郷の新潟を旅したり、成田の三里塚で栽培が始まった酒米・五百万石の田植えを手伝ったり、蔵の外でもさまざまなつきあいは続いた。
「成田には、漫画家の尾瀬あきら先生や飲食店の人たちも来ていて、すごい人たちに肉体労働させるんだなと思って(笑)。最初にうかがった頃は、まだ(成田空港開港反対派による)三里塚闘争は終わっていなくて、私は農家の人たちと火の見やぐらに上(のぼ)らせてもらったこともありました」とキエさんは1990年代初頭を振り返る。

志賀真二さん
親方の志賀真二さん。1954年新潟県十日町市松之山生まれ。製版の技術者だった時代にキエさんと出会い、生来の味覚の良さとすぐれた色彩感覚を生かし、27歳から和食の料理人に。小さな食堂だった店を稀代の繁盛店へと育て上げてきた。

農家で育った親方は、三里塚の田んぼでも田植え、稲刈り、はさ掛けと大活躍だった。酒造りだけでなく、センムの近くで米の手配からの采配を見ていると、蔵元の多岐にわたる仕事や金策の苦労も伝わってきたという。
「秋に米を買うのは現金で一括支払いでしょう。センムは、使う分だけ買うのではなくて、契約栽培の分を丸ごと全部払う形をとっていたから大変そうだった。ほかにも人件費や何やかやと支出が重なって、しかも、神亀さんは酒を熟成させるから酒代の回収まではだいぶ時間もかかりますもんね」。

センムが蔵元のグループでクラウドファンディングを開始した時、キエさんは心配し、当初は反対したという。しかし、よくよく事情を聞いてみると、センムとしては、自蔵が先頭を切ることでクラウドファンディングのシステムを定着させ、ほかの蔵の助けになれば、という思いからの取り組みなのだった。「自分の蔵では必要がないのに、ほかの蔵のために敢えて始めるなんて、すごい人だなと思いましたね」。

熟成酒に力を入れるということは、造った酒が換金化されるまでの時間も長くかかるということだ。夫妻は金銭の補助も申し出たが、センムは固辞した。その代わりとして2人は蔵への応援の気持ちから、これと見込んだ7号酵母使用の純米吟醸をタンク1本丸ごとを依頼したという。このタンクに限ったことではないが、時を重ねて熟成し、味わいを深めていく神亀の酒は、素材の味を生かすことを大切にするきく家の料理に欠かせぬ良きパートナーとなっていたからだ。

神亀と出会う以前から、「春の酒と秋の酒とでは、味の深さが違う」と直感的に酒の熟成の必要を感じていたキエさんだったが、センムの仕事を身近に見続けた歳月の中で、熟成の必要性への確信はさらに強まっていった。「もちろん、うちではいろいろなお蔵のお酒を揃えていますし、新酒の状態でお出しすることもあります。でも、ゆっくり料理を楽しんでいただく際には、やはり、熟成させたお酒のほうが量も進みますし、最終的にお客様から喜ばれているように感じます」。

女将さん
地下の貯蔵庫へと向かう女将さん。およそ100種類をこえる各銘柄の保管場所は、メモ書きだけでなく頭の中にも記憶として残しているという。
貯蔵庫内
貯蔵庫内。センムからは「ここなら振動が少ないから良い状態で熟成させられる」とのお墨付きをもらった、とのこと。

2016年春、フランス渡航中に体調を崩したセンムは、パリの病院に緊急入院し、すい臓がんを患っていることが判明する。有明のがんセンターでの手術後、入退院を繰り返すセンムとは頻繁には会えなくなったが、志賀夫妻との折々のやりとりは続いた。

センムが亡くなる2ヶ月ほど前、自宅療養に入った時に夫妻は知り合いの蔵元杜氏に頼まれ、神亀酒造の蔵へと案内した。その際、センムはその蔵元杜氏に神亀酒造の麹を冷凍した状態で手渡していたという。
「麹を勉強しなさいってことで渡したんですよね。センムは、いろんな人に酒のことを教えて、面倒見がよかったですよね。センムを頼っていろんな人がくっついてきたけど、それを抱えるのも好きだったんじゃないかな。本人は大変だって言ってても(笑)」。

センムに叱られた、センムは怖かった、と語る人も少なからずいるが、親方にとってはセンムは良き友だった、という思いがあるという。
「二人で酒飲むと、思い思いにずっといろんな話をしてね。センムのほうが年上だったけど、俺にとってはいい友達でしたね。叱られることもなかったな(笑)。本音で話しても価値観が一緒でね。日本酒は文化なんだってことも、神亀に行ったからわかったことでね。あんなふうにつきあえてた人がいなくなって、ほんと寂しいですよ」。

志賀夫妻
親方は「センムと出会えたおかげで、今のきく家の料理があるし、面白い店をやってこられたと思う」と今も感謝を口にする。きく家の食と酒の取り合わせの魅力は、長い歳月、日本酒の本質を学び続けてきた志賀夫妻の的確な酒選びと活かし方があってこそだ。

親方が店に入り、夫婦で一緒に仕事をするようになってから42年が過ぎた。平成の大不況、数々の天災、コロナの流行とさまざまな出来事が通り過ぎた今でも、きく家は多くの客たちから支持される人気店のままだ。
「センムと会えたから、神亀という酒があったから、いろんな人に来てもらえて、今も面白い仕事させてもらえてるんだな、って思ってますよ。ニューヨークやロンドンから大金持ちの、富裕層っての? ああいう人たちも来てくれるんだよね」。富裕層が来る、という言葉をこれほど爽やかに語れるのも親方の人柄ゆえ。この口調にセンムは癒されていたことだろう。

きく家の2人の存在はセンムにとって、安らぎであり、喜びであり、誇れるパートナーであっただろうな、と思う。

日本酒
左は、1981(昭和56)年の大古酒。神亀酒造が全量純米蔵に移行する前の時代の貴重な酒だ。写真右は1990年の上槽ふな口。どちらも低温貯蔵での熟成ゆえに色の変化が少なく、クリアな黄金色の状態を保っている。

文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子

藤田 千恵子

藤田 千恵子 (ライター)

ふじた・ちえこ 群馬県生まれ。日本酒、発酵食品・調味料、着物の世界を取材執筆するライター。dancyu日本酒特集にも寄稿多数。1980年代中盤に日本酒の業界紙でアルバイトしていたことがきっかけで神亀酒造・小川原良征氏と出会い、以後三十余年の親交を続ける。小川原氏の最晩年には、氏からの依頼で病床に通い、純米酒造りへの思い、提言を聞き取り記録した。