映画やドラマに登場する「あのメニュー」を深掘りする連載。第39回は衝撃的なラストで話題となったアカデミー賞受賞作。どうしようもない悲劇の中の絆の物語です。
小さなボクシングジムを営む老トレーナー・フランキー(クリント・イーストウッド)が、31歳の女性ボクサー・マギー(ヒラリー・スワンク)に指導してほしいと頼み込まれる。貧困から抜け出し生きるためにはボクシングしかない、と強い信念を持つマギー。初めは「女は教えない」とにべもなく断るが、マギーの熱意としぶとさに根負けし、しぶしぶ彼女を受け入れる。
親子ほど年の離れた二人が、ともに目標に向かって突き進んでいく。そのストイックなプロセスは、あまりに過酷であるがゆえに美しい。やがてマギーは連戦連勝し始め、信頼関係が生まれる。
娘と疎遠になり孤独に生きるフランキーと、一方のマギーは大好きだった父と死に別れ、母親は愛情のかけらもなく彼女を無視し続けている。心を通わせる相手のいない二人にとって、次第に互いが唯一無二の存在となっていく。その二人の心の軌跡に心を揺さぶられる。
そんな二人の絆を、さらに深める役割を果たす食べ物が登場する。命を削って戦うマギーと、満身創痍の彼女を止血しながらリングに送り出すフランキー。そこに、宝物のように置かれるのが「レモンパイ」だ。
遠征試合の帰り、マギーの故郷に立ち寄った二人は彼女の行きつけのダイナーに赴く。マギーは、フランキーにこう持ち掛ける。
「レモンパイがすごくおいしいの。本物のレモンを使っているから」
ロードサイトの簡素な作りの薄暗いダイナーで、曇りガラスの向こう側にはカウンターに並んで腰掛ける二人の姿。マギーは、父との思い出が詰まった場所なのだと打ち明けた。カウンターに肘をつき、いつになくくつろぐ彼女。フランキーもリングでは見せない柔らかな表情を浮かべ、彼の前には、お目当てのレモンパイがある。
三角形にカットされたレモンパイは、たっぷりした厚みだ。上半分に真っ白なメレンゲがこぼれそうに載っている。ふわふわのメレンゲの下には、やさしい黄色のレモンカスタードクリーム。それらをしっかりパイ生地が支える。フランキーは正面を向き背筋を伸ばし、フォークでパイを切り崩し神妙に口に運ぶ。マギーの方はパイを食べず、隣でひたすらフランキーを見つめている。とっておきのパイをフランキーが気に入ってくれますように。彼女の祈るような気持ちが伝わるシーンである。
フランキーは口にパイを入れたままマギーの顔を見つめると、こんな風に言ってのける。
「このまま死んでもいい」
最大限の賛辞を告げるフランキーを見やるマギーに、満面の笑みが浮かぶ。その面差しは少女のようだ。
「パパとよく来たの」と、マギー。
「こういう店が売りに出れば、貯金をはたいて買いたい」フランキーがそう返す。
そこには厳しいトレーニングを重ねるアスリートと指導者ではなく、父と娘のような親密さが漂う。甘酸っぱい香り、メレンゲの軽い食感、レモンカスタードクリームのトロッとした舌ざわり。孤独や虚しさをボクシングで埋めてきた二人を、レモンパイが甘く優しく包み込む。かつて存在しなかった、夢のような時間が流れる。
ところが順風満帆に思えたマギーが一転、とてつもなく残酷な不幸に見舞われてしまう。試合で半身不随となり人工呼吸器なしでは生きられない身体に…。医者にも家族にも見離され、絶望的な状況に置かれた彼女に献身的に尽くすフランキー。その姿に胸がえぐられる。
そんな二人にある日、ほんの束の間の平穏な瞬間が訪れる。そこにもまた、レモンパイがある。ベッドに横たわるマギーが、フランキーと“理想の場所”を語る場面。彼女はこんなイメージを伝える。
「想像できるわ、あなたの傍らには本とレモンパイ」。
そしてその場所で「レモンパイを焼くわ」と。
そんな場所はもうどこにもなく、そんな時間が訪れることはないと知りながら、二人は静かに微笑みを交わす。何故ならレモンパイはあのカウンターに確かに存在したし、あの時彼らに揺るぎない幸せをもたらしてくれたのだから。
文:汲田亜紀子 イラスト:フジマツミキ