銀座は特別な食の街です。多くのジャンルの店があるだけでなく、高級な店があるだけでなく、丁寧な仕事で多くの人を静かに唸らせるような店が路地裏や雑居ビルの一角にひっそりと存在しているからです。そんな銀座らしい店のひとつが「しも田」です。そこで、感動的な滋味あふれる一品に出会いました。
大学に入るために東京に出てきて一週間後には銀座のキャバレーで黒服のバイトを始めた僕は、裏側から(?)銀座を垣間見ました。その後、バブル真っ只中に社会人になった僕は、給料は安かったのに、なぜか毎晩のように銀座で飲んでいました(誰かが払ってくれていたのでしょう……)。当時は、客としての“階層”が存在してたような気がします。「この店は一人で行っても大丈夫」「あの店は先輩に連れて行ってもらえれば入れる」「あそこの店は若造が行く店ではないけれど、いつか行ってみたい」という、自重や憧れのテリトリーが自然に身についていたのです。
「しも田」は、あの頃の自分からすると「いつか行ってみたい」と思う店です。路地裏の雑居ビルの地下に店を構えて50年以上、下田徹さんと二代目の文晃さんら家族で賄い、季節の食材を用いたしみじみ旨い和の料理が揃います。旬の魚介の刺身、焼き物、煮付け、名物の“海老揚げ団子”(BSフジ「日本一ふつうで美味しい植野食堂」で教えてもらいましたが、実に手間がかかり、海老の香りが凝縮した逸品です)などオリジナル料理も。締めには海老の出汁が詰まったカレーもあるなど、多彩で魅力的なお品書きが並びます。
こうした店には銀座に慣れた人たちが集い、上手に飲み食いすることで、さらに店の雰囲気や味わいが洗練されていくものです。
この日もカウンターに陣取って、スタートはいつもの前菜。ご主人オリジナル、軽やかなコクが野菜の味を引き立てるドレッシングがかかったサラダと三種盛りです。この日は煮凝り、たらこ煮、カリフラワーのピクルス。これらをつまんでビールを飲みながら、今日の組み立てを考えます。
ふぐを刺身と唐揚げで、お、白子の漬け焼きもいいですね。これはお酒ですね。ぬる燗でお願いします。親父さんが焼いているのは太刀魚ですか?旨そうですね。それもください。身がふっくらとして、塩加減が絶妙。すみません、お酒お代わりください……。
どれも気張った味わいではなく、素材の良さと丁寧な手間を感じる静かな旨味がじわじわ広がります。余計なことを考えることなく、風呂に入っているようなほっこりとした安心感があります。
そして、白子の漬け焼きなどの皿に包丁を入れた笹がさりげなく敷いてあります。
「これは親父さんが切ったんですか?」と聞くと、「そうですよ」と小さな笑顔。
今では鮨職人でも笹切りができる人が少なくなっている中、さりげなく手間をかけていることにまた感動。こういうディテールにも気を配ったり手間を掛けている店は素晴らしいし、これが“銀座らしい店”の奥行きだと思います。
もう少しつまみたいですね。えーと、小芋煮をお願いします。
と、さりげなく頼んだ一品が、沁みました。
何の変哲もない、小芋の煮物です。でも、口に入れるとやさしい歯応えがあり、ホロリとネットリの間くらいの滑らかな舌触りです。上品な味わいは酒の肴としてはちょっと物足りないかと思いきや、酒に負けることなく、かといって出しゃばることがない、程の良さ。たべ進むうちに小芋の甘味とだしの旨味がスーッと膨らんでいきます。
大きさや面取りの具合が絶妙なのでしょう、小芋の表面から中にかけて絶妙なグラデーションで味が入っています。しっかり旨いけれど、食べ飽きることがない。柚子が散らしてあるけれど、香りがほのかに漂って嫌味になることがない。料理の加減とはこういうことなのでしょう。
カウンター越しに「親父さん、旨いですね!」と思わず声をかけると、「前の日からじっくり味を入れていますから」と。さらりとかける手間の奥深さ、時を重ねることでしか出ない味わいを感じました。
地味で滋味。この素朴で感動的に美味しい一皿に銀座の矜恃を感じつつ、あの頃の自分に告げたくなりました。
「大丈夫、いつかこういう店を楽しめるようになるよ」
文・写真:植野広生