勇気を振り絞り、円谷英二監督が通ったという「紅葉家」の暖簾をくぐった樋口監督が出会ったそばとは?「シン・ウルトラマン」、「シン・ゴジラ」など数々の日本映画を監督してきた樋口真嗣さんの、仕事現場で出会った“ゲンバメシ”とは?
東宝スタジオのすぐ脇の仙川沿い……かつて「七人の侍」の野武士たちに襲われる村のオープンセットが川ばたに建てられるほどの都会離れしたロケーションでしたが、今なおその雰囲気を残す鬱蒼とした木立ちの中に「紅葉家」というそば屋がありました。
何十年という歳月もさることながら傾斜地に無理やり建てたためなのか、レベルがきちんと取れてなくて、なんとも歪な建て付けになっていて、店から店の奥の厨房までもなんかぐにゃぐにゃしています。
接地してから何年経ったのかもうわからないほど古いブラウン管のテレビは色がおかしくなって、テレビに映るタモリの顔はカメレオンのような黄緑色で、その横には全盛期のとんねるずの番組のワンコーナー、汚いのに美味しいお店に与えられる『汚なシュラン』で三つ星を獲った賞状とトロフィーが飾ってあります。
窓辺にはおそらく使われることはないだろうザルが山積みになっていて、黄金時代の栄華を想像させ、厨房にはまるで蒸気機関のような鉄製の釜が鎮座していて煮立ったお湯から盛大に湯気を立ち上がって窓なのか建具の隙間なのかわからない出どころの外光が筋となり踊り、それがまた映画の一場面のような美しさ。
ただ古いだけでない、歴史を感じる佇まいがまた、黒澤明監督作品の美術監督、村木与四郎さんが建てたセットのような重厚なリアリティのようで、ただのボロ屋以上のありがたみが加味されているんですけど、そこに入ってきたお客さんのほとんどが注文するのが、鳥つゆそばです。
ザルに乗った冷たいそばを温かいつゆで食べるんですが、別に鶏肉がゴロッとつゆに浸されている訳でもなく、細かく切った鶏皮が申し訳程度に浮いていて、これで鳥つゆそばを名乗るとはなかなか図々しいではないかと訝しみながら一口啜ったら、今さっきまで疑っていた自分を殴り倒して土下座をさせたいほどの衝撃に打ちのめされます。
なんという美味しさ!
ただの蕎麦つゆなのに、鶏皮から浸透した鶏油のせいなのか、コクと旨みが凄いのです。打ちたてのそばのコシも相まって円谷英二監督が足繁く通ったのも納得です。
撮影所の前にあって通いやすいから、ではなく、遠くからでも通いたくなるほどのホンモノ加減です。
他にもいっぱいメニューはあるのですが、鳥つゆそばの美味しさは群を抜いていて、気がつくとそればかり食べてしまうのです。中毒です。
おそらくちょっと大きな地震がきたら間違いなく倒壊してそばを啜りながら生き埋めになるでしょう。店の外の急坂で急カーブでハンドル操作を誤ったダンプカーが突っ込んできてもひとたまりもないでしょう。
そんな危険、スリルと隣り合わせの蕎麦屋、「紅葉家」さんも周辺一体の雑木林ごと再開発になり立ち退き、取り壊し、跡地はマンション、と東京の至る所で繰り広げられるスクラップ&ビルドの典型的コンボでさよなら鳥つゆそば。折しもテレビ番組で紹介されたりで別れを惜しみにだけ来る特需客が列をなしてしまい、我々は残念ながら最後の一杯を味わうことすらできませんでした。
でも、お店は無くなったけども鳥つゆそばは無くなった訳ではなかったのです。ほどなくして隣町の狛江に移転して「紅葉家」は営業を再開しました。
以前の味わい深い風情は微塵も感じない、普通の店舗ですがなぜか壁が真っ青でした。
食欲を減退させるので飲食であまり使われない色と言われている青を使ったせいなのか、新店舗で再食した鳥つゆそばはかつての感動には及びませんでした。魔法が解けてしまったのかもしれません。
ああ。ここまで書いてたら「紅葉家」のその後が無性に気になってきました。というか魔法が解けてしまったとしてもあの味にいま一度会いたい。そんな思いが膨らんできたのに、調べたら何があったのか、グルメサイトでも検索サイトでも掲載保留、閉業となっていたのです。
そういえば昨年惜しまれながら五反田から竹芝に移転した、フィルム現像所を始祖とするポストプロダクション会社のイマジカ。
実は私、二十代の数年間、特撮グループというモーションコントロールカメラで素材を撮影して、合成まで一貫した作業ができる部署に籍を置いていた時期がありました。
目黒川沿いの町工場がひしめく中に燦然と聳え立つ新築のイマジカ業務本社ビルは、特撮……ひいては映画の未来を牽引するような夢に溢れていました。そんな町工場だらけの中に工員さんたちが昼飯をかき込むめし屋が点在していて、イマジカ業務の人たちが好んで通っていたそば屋がありました。
「やまもと」という屋号の店の名物は“大天ざる”。
天ざるの大盛りなんですが、ここの天ざる、天ぷらが添えられたざるそばではなく、熱いつゆに天かすをジャーっと入れて、そばをつけて食べるスタイルなんです。たぬきそばじゃないか?と思われるかも知れないけど、これがまた奇跡のシナジー、奇跡の確変なんですよ、鳥つゆそば同様に!マグマのように煮えたぎる熱いつゆにカリカリの天かすが溶ける一瞬にそばをつけて啜る!
至福のひとときでした。
イマジカの周りの町工場も再開発で取り壊され、全部高層ビルになり、あたりで一番近代的なビルも今では一番小さいビルになってしまいました。そんな逆境の中、そばの「やまもと」は負けることなく耐えて……というかむしろ再開発で立った高層ビルに入った会社の人たちが押し寄せて町工場時代より繁盛してたのに、平成30年に店主高齢のため閉店しちゃいました。
だかれたものはすべて消えゆくさだめなのであります。無念。
文・イラスト:樋口真嗣
東宝スタジオのすぐ脇の仙川沿い……かつて「七人の侍」の野武士たちに襲われる村のオープンセットが川ばたに建てられるほどの都会離れしたロケーションでしたが、今なおその雰囲気を残す鬱蒼とした木立ちの中に「紅葉家」というそば屋がありました。
何十年という歳月もさることながら傾斜地に無理やり建てたためなのか、レベルがきちんと取れてなくて、なんとも歪な建て付けになっていて、店から店の奥の厨房までもなんかぐにゃぐにゃしています。
接地してから何年経ったのかもうわからないほど古いブラウン管のテレビは色がおかしくなって、テレビに映るタモリの顔はカメレオンのような黄緑色で、その横には全盛期のとんねるずの番組のワンコーナー、汚いのに美味しいお店に与えられる『汚なシュラン』で三つ星を獲った賞状とトロフィーが飾ってあります。
窓辺にはおそらく使われることはないだろうザルが山積みになっていて、黄金時代の栄華を想像させ、厨房にはまるで蒸気機関のような鉄製の釜が鎮座していて煮立ったお湯から盛大に湯気を立ち上がって窓なのか建具の隙間なのかわからない出どころの外光が筋となり踊り、それがまた映画の一場面のような美しさ。
ただ古いだけでない、歴史を感じる佇まいがまた、黒澤明監督作品の美術監督、村木与四郎さんが建てたセットのような重厚なリアリティのようで、ただのボロ屋以上のありがたみが加味されているんですけど、そこに入ってきたお客さんのほとんどが注文するのが、鳥つゆそばです。
ザルに乗った冷たいそばを温かいつゆで食べるんですが、別に鶏肉がゴロッとつゆに浸されている訳でもなく、細かく切った鶏皮が申し訳程度に浮いていて、これで鳥つゆそばを名乗るとはなかなか図々しいではないかと訝しみながら一口啜ったら、今さっきまで疑っていた自分を殴り倒して土下座をさせたいほどの衝撃に打ちのめされます。
なんという美味しさ!
ただの蕎麦つゆなのに、鶏皮から浸透した鶏油のせいなのか、コクと旨みが凄いのです。打ちたてのそばのコシも相まって円谷英二監督が足繁く通ったのも納得です。
撮影所の前にあって通いやすいから、ではなく、遠くからでも通いたくなるほどのホンモノ加減です。
他にもいっぱいメニューはあるのですが、鳥つゆそばの美味しさは群を抜いていて、気がつくとそればかり食べてしまうのです。中毒です。
おそらくちょっと大きな地震がきたら間違いなく倒壊してそばを啜りながら生き埋めになるでしょう。店の外の急坂で急カーブでハンドル操作を誤ったダンプカーが突っ込んできてもひとたまりもないでしょう。
そんな危険、スリルと隣り合わせの蕎麦屋、「紅葉家」さんも周辺一体の雑木林ごと再開発になり立ち退き、取り壊し、跡地はマンション、と東京の至る所で繰り広げられるスクラップ&ビルドの典型的コンボでさよなら鳥つゆそば。折しもテレビ番組で紹介されたりで別れを惜しみにだけ来る特需客が列をなしてしまい、我々は残念ながら最後の一杯を味わうことすらできませんでした。
でも、お店は無くなったけども鳥つゆそばは無くなった訳ではなかったのです。ほどなくして隣町の狛江に移転して「紅葉家」は営業を再開しました。
以前の味わい深い風情は微塵も感じない、普通の店舗ですがなぜか壁が真っ青でした。
食欲を減退させるので飲食であまり使われない色と言われている青を使ったせいなのか、新店舗で再食した鳥つゆそばはかつての感動には及びませんでした。魔法が解けてしまったのかもしれません。
ああ。ここまで書いてたら「紅葉家」のその後が無性に気になってきました。というか魔法が解けてしまったとしてもあの味にいま一度会いたい。そんな思いが膨らんできたのに、調べたら何があったのか、グルメサイトでも検索サイトでも掲載保留、閉業となっていたのです。
そういえば昨年惜しまれながら五反田から竹芝に移転した、フィルム現像所を始祖とするポストプロダクション会社のイマジカ。
実は私、二十代の数年間、特撮グループというモーションコントロールカメラで素材を撮影して、合成まで一貫した作業ができる部署に籍を置いていた時期がありました。
目黒川沿いの町工場がひしめく中に燦然と聳え立つ新築のイマジカ業務本社ビルは、特撮……ひいては映画の未来を牽引するような夢に溢れていました。そんな町工場だらけの中に工員さんたちが昼飯をかき込むめし屋が点在していて、イマジカ業務の人たちが好んで通っていたそば屋がありました。
「やまもと」という屋号の店の名物は“大天ざる”。
天ざるの大盛りなんですが、ここの天ざる、天ぷらが添えられたざるそばではなく、熱いつゆに天かすをジャーっと入れて、そばをつけて食べるスタイルなんです。たぬきそばじゃないか?と思われるかも知れないけど、これがまた奇跡のシナジー、奇跡の確変なんですよ、鳥つゆそば同様に!マグマのように煮えたぎる熱いつゆにカリカリの天かすが溶ける一瞬にそばをつけて啜る!
至福のひとときでした。
イマジカの周りの町工場も再開発で取り壊され、全部高層ビルになり、あたりで一番近代的なビルも今では一番小さいビルになってしまいました。そんな逆境の中、そばの「やまもと」は負けることなく耐えて……というかむしろ再開発で立った高層ビルに入った会社の人たちが押し寄せて町工場時代より繁盛してたのに、平成30年に店主高齢のため閉店しちゃいました。
だかれたものはすべて消えゆくさだめなのであります。無念。
文・イラスト:樋口真嗣