伝統と革新~蕎麦を紡ぐ人々~
「一東菴」 農家との絆で育む "美親情楽"①

「一東菴」 農家との絆で育む "美親情楽"①

東京・東十条にある「一東菴」は今の蕎麦界を牽引する1軒だ。産地や品種ごとに打つ蕎麦は万華鏡のように多彩な味わいを楽しませる。3タイプを揃えた蕎麦がきもこの店の名物。店主、吉川邦雄さんが蕎麦や店に込める想いを5回にわたって紹介しよう。

産地の個性が炸裂する蕎麦と蕎麦がきの味比べ

趣味で蕎麦屋巡りをしているからか、「おいしいお蕎麦屋さんを教えて」と訊かれることがよくある。そのときに決まって名前を挙げるのが、東十条にある「一東菴」だ。
そもそも蕎麦の好みは人それぞれ。単においしいだけではその人の舌に合うかどうかわからない。その点、「一東菴」の蕎麦は、おいしいを超えた先の、驚きと発見と感動がある。好みはさておき、「とにかく行ってみて!」と言いたくなるのがこの店なのだ。

一東菴
緑が彩る「一東菴」の店先。庇の下で蕎麦の花を描いた麻の暖簾が優しくお客を迎え入れる。

驚きと発見と感動――。それらを生む要素の1つは蕎麦の味わいの多様性だ。店主の吉川邦雄さんが日々打つ蕎麦は3~5種類。産地や品種はすべて異なり、それぞれの個性が鮮やかに打ち出されている。
思うに、産地別蕎麦の食べ比べには大きく2通りの手法がある。1つはあえて同じ挽き方と打ち方にし、違いを浮き彫りにする方法。条件を揃えることで微妙な差異まで感じられて面白いのだが、手繰る時は顕微鏡を覗く研究者の気分。しかも、蕎麦によっては特徴が似ていてなにがなんだか……ということもしばしばだ。
対して、「一東菴」では産地・品種ごとに挽き方や打ち方をガラリと変えている。それにより個性が際立ち、一口目から「おお、こう来たか!」と仰け反り、唸るのは毎度のことだ。
似顔絵に例えるなら写実的に描くかデフォルメするかの差。食べて楽しいのは圧倒的に後者で、誰がどう味わっても“違いのわかる人”になれるというわけだ。

店主の吉川さん
店主の吉川さんは1972年1月22日生まれ。蕎麦の道を歩んで28年になる。

“おすすめ三種せいろ”では、そんな個性に富む3産地の蕎麦が小さめのポーションで繰り出される。内容は毎日替わり、この日、登場したのは「長崎県産五島在来」、「山形県産越沢(こえさわ)三角そば」、「千葉県成田産の“うまみ”」の3種類だ。

最初に登場したのは長崎県の五島在来。その名の通り、五島列島で栽培され、吉川さんは天日干しの玄蕎麦を仕入れている。
「この産地は鮮やか緑が特徴。去年は雨で2度、播き直しをしたのですが、それでも上質な蕎麦を収穫できました」
この日は丸抜き(蕎麦の実から殻を除いたもの)を電動の石臼で細かく挽き、つなぎなしの十割蕎麦に仕立てられた。舌触りはなめらかで、澄んだ甘味が噛む度に迸る。しなやかなコシもエレガントだ。後を追いかけるのはほのかなえぐみ。それが決して嫌味でなく、味わいに厚みを加えるのも面白い。

“おすすめ三種せいろ”1,950円 の1品、五島在来の“微碾(びふん)せいろ”。

続いては山形県越沢三角そばだ。栽培地は約1300年前に信濃国野尻の里(現在の長野県信濃町)からの移民が持ち込んだとされる蕎麦を栽培する鶴岡市の越沢地区。この地区で採れた蕎麦は“三角そば”と呼ばれ、自家採種で細々と受け継がれてきたという。その話が偶然、山形在来作物研究会のメンバーの耳に入り、在来作物に認定されたのは2016年のこと。3軒だった栽培農家は14軒に増えている。親交のある「そばの実カフェsora」の小池ともこさんの紹介で越沢三角そばを知った吉川さんはその味に惚れ込み、昨年から仕入れるようになった。
「まだ収量は限られますが、味わいが深くて幅広い。産地にも行きましたが、標高200mの山間にあり、昔ながらの里山の景色のなかに棚田が広がる素晴らしい場所。感動しました」

同じ産地の蕎麦の実を挽き方を変えてブレンドするのも吉川さんの手法の1つで、この蕎麦では丸抜きの微粉に、ドイツ製セラミック臼を使った粗挽きをブレンド。その粗挽きも玄蕎麦と丸抜きを混ぜてあり、全部で3タイプの蕎麦粉が使われていることになる。
透明感のある繊細な蕎麦に粗い粒子が浮かぶ姿は、野趣と可憐さを兼備。もちっとした食感とともに素朴な甘味がじわじわと湧き上がり、滋味という言葉が浮かんでくる。炊き立てのご飯のような香りもあって、手繰るほどに引き込まれる。

おすすめ三種せいろ
こちらも“おすすめ三種せいろ”の1品。玄蕎麦と丸抜きをそれぞれセラミック臼で粗挽きにした蕎麦粉と電動の石臼の微粉を1/3ずつブレンド。蕎麦粉とつなぎを10:1で合わせた“外一”で打っている。

最後にやってきたのは千葉県成田の初夏蕎麦“うまみ”。初夏蕎麦とは春に種を播き、初夏の6月下旬から収穫した蕎麦のことだ。暑い時期に出回り、夏新とも呼ばれている。
生産者の上野光弘さん・雅恵さん夫妻とは旧知の仲。新蕎麦を収穫するといち早く届けられ、それを製粉して蕎麦に仕立てた感想をフィードバックするという関係が続いている。
その初夏蕎麦で打ったのは“手碾(てびき)せいろ”だ。手動の石臼をゴロゴロ回して挽いた蕎麦粉は粗挽きと微粉が混ざり、力強くも清々しい香りを解き放つ。味わいは芯の部分に旨味を蓄えながらも、夏にふさわしいさらっとした食べ心地。食べるほどに恋しくなるのも成田の蕎麦の特徴だ。

成田の初夏蕎麦の手挽き蕎麦
“おすすめ三種せいろ”のトリを飾ったのは成田の初夏蕎麦の手挽き蕎麦。つなぎは越沢三角そばと同じく外一。

同じ細打ちながら見た目も味わいも三者三様で、いずれもハイレベル。なにより小さな蕎麦の実のなかに、これほど多彩な味が詰まっていることに驚いた。吉川さんが蕎麦に込める想いは、まさにそこにあるという。
「蕎麦ってシンプルですが、追求していくとどこまでも尽きない面白さがあるんです。その味を生むのは畑に立つ農家のみなさんであり、それぞれの土地の気候・風土。うちの蕎麦を通じて産地に興味を持ち、機会があれば足を運んでみてほしいと思っているんです」

その想いは蕎麦がきにも通じている。品書きに並ぶのは粗碾そばがき、微碾そばがき、手碾そばがきの3種類。このほかに蕎麦がきを香ばしく焼いた品もあり、どんだけ好きやねん!とツッコミたくなるが、
「そう、好きなんです(笑)。蕎麦は打つ工程で人の手が入り、さらに茹でることで多少なりとも風味が逃げてしまう。その点、蕎麦がきは蕎麦粉をそのまま一気にかき上げるので、蕎麦の実が持つ味や香りをダイレクトに伝えることができるんです。それに同じ産地でも蕎麦と蕎麦がきでは違う魅力が出てくるのも面白いところ。注文ごとにかくのは大変で、自分で自分の首を絞めている感じはありますが(笑)」

品書き
蕎麦がきが品書きの1ページを堂々飾る。ほかのページには手碾そばがきも。

3種の中で最も特徴的なのが粗碾蕎麦がきだろう。荒々しい佇まいはいかにもワイルド。むちむちと弾力があり、噛む度にナッツのような香ばしさとフレッシュな旨味がプチプチと弾け出す。この日、使ったのは手碾せいろと同じ千葉県成田産の初夏蕎麦。素朴でナチュラルな味わいが一層、鮮烈になる。

一方、ポタージュ状の蕎麦湯に浮かんで登場する微碾そばがきは、天使の羽かと思うほどふわふわでエアリー。しゅわ~と溶けるなめらかさも堪らない。微碾せいろで登場した五島在来で仕立てられ、透明感のある甘味が純度を増しながら濃厚になったような印象だ。

そして3つめの手碾そばがきは常陸秋そばの名産地、茨城県金砂郷の手刈り・天日干しの蕎麦で仕立てられた。ふんわりもちもちの舌触りとズシンと舌に響く甘味に風格すら感じられる。香りも鮮烈で、飲み込んだ後の余韻も長い。ちなみに、手碾そばがきは茨城県の焼畑で栽培される水府在来でつくることもあるとか。そちらも食べてみたくなる。

粗碾そばがき
粗碾そばがき1,250円。醤油や藻塩などが添えられるが、一口目は何もつけずに無垢な畑の味を楽しみたい。
微碾そばがき
とろんととろける微碾そばがき1,250円。電動の石臼で挽いた微粉をかき上げる。
手碾そばがき
手碾そばがき1,450円。もちもち感はお餅レベル。金砂郷産のなかでも手刈り・天日干しが使われているのも貴重だ。

これらの蕎麦がきで活躍するのは、フッ素樹脂加工のフライパン。行平鍋などアルミの鍋と違い、こびりつきにくい上に鍋より浅いため手早く満遍なくかくことができる。
「粗挽きは湧いているお湯に入れますが、微粉や手挽きはダマになりやすいので水に溶いてから火にかけます。強火にあてながら、空気を抱き込ませるように一気にかくと、ふんわりと仕上がりますよ」
蕎麦粉と水の割合は1:2が基本。おいしい蕎麦粉が手に入ったら、試してみるといいだろう。

蕎麦粉
蕎麦粉の風味が飛ばないよう強火でスピーディーにかき上げるのがコツ。粗挽きの蕎麦がきはわずか3分ほどで完成した。
厨房
フライパンを揺すりつつ、木ベラで絶えずかき混ぜる。蕎麦がきをつくり過ぎて腱鞘炎になったこともあるとか。

蕎麦や蕎麦がきに使う玄蕎麦は北海道から沖縄・宮古島まで現在、25産地前後。店の奥にある冷蔵庫には何年も熟成させたヴィンテージものも眠り、歳月を跨いだ全国味巡りも楽しめる。
そんな店には遠方から訪れるお客も多く、予約を取らないランチタイムは行列必至。昼でも蕎麦前から楽しむ人がほとんどのため1時間待ちという日も少なくない。それでも辛抱強く待つのは、ここにしかない蕎麦の世界が繰り広げられているため。

タイトルにある「美親情楽」とは、店を開くにあたって吉川さん自らがつくった座右の銘だ。
「『美』は美しい蕎麦畑、"美味しい"蕎麦と料理、美しい建物。『親』は生産者さんや蕎麦屋仲間との親交、親愛、親しみやすさ。『情』は何事にも情熱と愛情を注いで取り組み、『楽』は楽しみながら仕事をし、お客さまに楽しんでいただく。そんな思いを込めています」
次回からは「美親情楽」が詰まった、製粉、蕎麦打ち、店づくり、そして生産者との交流を追っていきたい。

品書きにも「美親情楽」の文字が刻まれている。

店舗情報店舗情報

一東菴
  • 【住所】東京都北区東十条2‐16‐10
  • 【電話番号】03‐6903‐3833
  • 【営業時間】11:45~14:00(L.O.) 18:00~20:00(L.O.) 火・水は昼のみ、祝日12:00~15:30(L.O.15:00)
  • 【定休日】日曜 月曜
  • 【アクセス】JR「東十条駅」南口より2分

文:上島寿子 写真:岡本寿

上島 寿子

上島 寿子 (文筆家)

東京生まれで、銀座の泰明小学校出身。実家がビフテキ屋だったため、幼少期から食い意地は人一倍。洋酒メーカー、週刊誌の記者を経て、フリーに。dancyuをはじめ雑誌を中心に執筆しています。