伝統と革新~蕎麦を紡ぐ人々~
「みよしそばの里」東京近郊の畑で三人四脚の蕎麦栽培②

「みよしそばの里」東京近郊の畑で三人四脚の蕎麦栽培②

都心から車で1時間足らず。埼玉県の南に位置する三芳町は東京に最も近い蕎麦の名産地だ。なぜこの地で蕎麦栽培が始まったのか。父子二代で築き上げた「みよしそばの里」のヒストリーを追った。

父から受け継いだ蕎麦栽培という“本気の遊び”

埼玉県三芳町には年2回、桜とは別にお花見シーズンがある。咲き誇るのは白く可憐な蕎麦の花。今や地元の季節の風物詩になっている。
その蕎麦の花を咲かせ始めたのは、「みよしそばの里」の社長、船津正行さんの亡き父、貞夫さんだ。
蕎麦の栽培を始めたのは今から30年ほど前。それまでは意外にも小麦を育てていたのだとか。
「うちは250年続く農家で、八代目にあたる父は祖父が早くに亡くなったことから18歳で家業を継ぎました。とはいえ、2町歩(約2ha)の農地を1人で機械を使わずに耕すのは無理があり、僕が生まれた頃は内陸水産で鯉の養殖をしていました。その池を埋めて畑に戻し、小麦の栽培を始めたのは1989年。近くにJAのライスセンターがオープンして、小麦を高く買い上げてくれたということもありますが、父としては“農を継承”という想いもあったのでしょう。元々三芳町はうどん文化圏で、小麦の栽培も盛んだったんですね。当時、『小麦畑が蘇った』と話題になったと聞いています」

この小麦の栽培は大当たり。近隣の農家も巻き込んで圃場は30haにまで拡大した。しかし、好況は長くは続かなかった。連作による病気が起こり、以前ほどの収量を確保できなくなったのだ。
「一気に赤字に落ち込み、栽培をやめる農家が続出しました。そんなときに近所の知り合いから『蕎麦を播いたらどうか』と助言を受けたんです。蕎麦なら播いて刈るだけ。手間はかからないし、トラクターやコンバインなどの機械をそのままも生かせるよって。その人も家の前で蕎麦を育てていたんですね。畑を寝かせておくわけにもいかないので、じゃぁ、播いてみようかと。父は収益よりも、蕎麦の花を咲かせて地域の人たちに楽しんでもらえればという気持ちだったのだと思います」
こうして5haの畑で蕎麦栽培がスタートした。といっても知識はなく、すべてが手探り状態だ。
「蕎麦を勧めてくれた人から『霜に当たったら枯れる、風が吹いたら実が落ちる、雀が来たら食べられる。それだけは気をつけて』とアドバイスをもらっただけ。収穫のタイミングさえもわからず、早く刈りすぎてコンバインから水しぶきがあがったぐらいです」

トラクターなどの農機具
小麦栽培に使われていたトラクターなどの農機具が蕎麦でも活躍。船津さんが戻ってから台数も大幅に増えた。

物は試しで始めたこの蕎麦栽培が家業として定着したのは、ある意味、偶然だった。初めて種を播いたその年、満開の蕎麦の花がたまたまテレビクルーの目にとまったのだ。
「ニュース番組に取り上げられて、『東京近郊に蕎麦畑が現れた』とうちの畑の映像が流れたんです。すると食べてみたいという問い合わせが殺到して。そもそもこの辺りは蕎麦栽培の実績がなく、地元のJAでは蕎麦の買い取りをしていなかったんです。となると、販路は自分たちで開拓しなければならない。テレビ番組の影響もあって、急遽、製粉機を買って蕎麦粉の販売を始めました」
三芳町育ちの蕎麦は評判を呼び、やがて後継者のいない高齢農家などから「使っていない畑で蕎麦を栽培してほしい」という依頼が舞い込むようになった。5haだった蕎麦畑は年々増えて30ha以上に広がり、「みよしそば愛好会」として近隣の農家が種播きや収穫の手伝いをして支えてくれたという。

蕎麦栽培に力を入れる父を尻目に、息子である船津さんは別の道を歩んでいた。早稲田大学を卒業すると電気通信の会社に就職。関西支社で顧客データの統計・分析や商品の販促企画などの仕事に就いた。
「電気通信の会社を選んだのは明るい未来がありそうだったから。ちょうどPHSから携帯電話に移行している時期で、世の中を変える事業に関われたら面白いなと思ったんです。就職して1年目から重要な仕事も任されるようになりました。毎日のように顧客データに向き合って、どうやって売っていくかを考えるうちに数字に対する感性はかなり磨かれましたね」

仕事は面白かったものの、時折、襲ってきたのは虚無感だ。
「例えば、本社のマスタープランに疑問を感じても、その通りにしなければならない。会社員だから仕方ないことですが、やっぱり虚しいですよね。将来を考えても同じ。仮に社長になれたとしても株主にお伺いを立てなければならないわけで、結局、自分のやりたいことを自由にはできないんだなと。みんなは何をモチベーションにして仕事しているのだろうと疑問が湧いてきたんです」

このときふと頭をよぎったのが父の貞夫さんのことだ。親父は一体、どんな思いで、何を目指して蕎麦をつくっているのだろう――。その答えが無性に知りたくなった。
「だから、父のもとで働くことにしました。ただし、跡を継ぐと決めたわけでなく、継ぐかどうかは一緒に仕事をしてみてから考えようと。違うと思ったら別の道を探せばいいかと思っていたんです」

船津さん
二代目の船津さんは1979年生まれ。「蕎麦栽培の結果が出るのは1年に1度。変化が速い通信の仕事より僕の性分に合っている気がします」と語る。

会社を辞めたのは入社3年目。船津さんが25歳のときだ。家に戻って働き始めると、誰よりも長く畑に立つ父の姿を目の当たりにした。蕎麦の栽培を、そして農業を楽しんでいるようにも見えた。
「父にとって蕎麦は地域への貢献だったんです。休耕地を蕎麦畑にして生かすのはその一環。収穫した蕎麦を蕎麦がきにして振る舞ったり、蕎麦職人さんを招いて蕎麦打ち教室を開いたりということもしていました。父は『蕎麦は遊び』とよく話していましたね。遊びといっても本気の遊びで、畑で使う機械を夜なべして調整するなんてしょっちゅう。『仕事だから』『儲けるために』といった意識がないから栽培を続けることができた。それが結果的に商売に結びついたんです」

事実、三芳町産の蕎麦の売り上げは右肩上がり。当初は一般向けの販売が中心だったが、徐々に蕎麦店からの引き合いが増え、船津さんが戻ったときには20〜30軒との取引があったという。
「ただ、評価はまちまちで『三芳の蕎麦は色はいいけど味が薄いね』という声も聞こえていました。もともと『地域のために』とつくり始めた蕎麦なので、おいしさはあまり考えていなかったです。だったら、自分は味を追求してみようと。早刈りだから味が乗り切っていないのか?自家採種で種をつないでいるせいなのか?悶々と考えては試行錯誤を繰り返していました」

迷走を続けているときに出会ったのが、京都府亀岡市の蕎麦店「拓朗亭」の店主、矢田昌美さんだ。三芳町産の蕎麦を使った矢田さんは、ポテンシャルの高さを評価した上でこんな感想を伝えてきた。
「乾燥が甘いんじゃないかな。そこを変えれば化けるよ」

「それまでうちの玄蕎麦は16〜17%の水分量で仕上げていました。水分が多いほうが蕎麦を打つときの加水が少なくて済むし、粘りも出るから打ちやすいと思っていたんです。ところが、矢田さんは14%がいいと言う。最初は疑っていたのですが、『乾燥を変えた分は全部引き取るから』という言葉に押されて試してみたら甘味も味の濃さもまるで別物になった。そこでようやく自分の中でのおいしい蕎麦の基準ができたんです」

品種もしかりだ。キタワセソバは色飛びすると矢田さんに指摘され、じゃあ確認してみようと別の品種を試験栽培したところ、味が濃くなるものと出合った。
「何事も自分で確認しないと真偽は確かめられないことを学びました。今度はこの品種を播いてみようとか、刈り取りはいつがいいかとか、矢田さんとは今もなにかと連絡を取り合っています。ほかの生産者さんがやらないようなこともやったりして。いうなれば悪巧み仲間ですね(笑)」

蕎麦の実
美しい色は三芳町産のシンボル。秋蕎麦は明るいライトグリーン、夏蕎麦は深いモスグリーンになるという。

以来、船津さんの探究心に火がつき、品種、肥料、栽培方法など毎年、何かしら新たなチャレンジをするようになった。その中にはこんなことをするの?と驚く、ユニークな取り組みも多い。
「蔵番(KuraBan)」という業務用冷蔵庫の導入はその一つだ。群馬県高崎市の「MARS Company」が開発したこの冷蔵庫は、庫内の食材に「電場」と呼ばれる特殊なエネルギーを加えるのが特徴。それにより一般的な冷蔵庫よりも長期間の鮮度保持ができるという。しかも、鮮度を保ちながら熟成を促せるため、牛肉のエイジングにも活用されている。
「蔵番を取り上げたテレビ番組を観て、魚や野菜の鮮度を長く保てるなら、打った蕎麦の鮮度も保てるかなと思って問い合わせたのが始まりです。そのときにエイジングの話を聞いたので、蕎麦の実の熟成にも使えるんじゃないかと試したら、一般的な冷蔵庫で熟成させた蕎麦とは違う味の乗り方になって面白かった。蕎麦を寝かせるのは通常、お蕎麦屋さんが独自に行うのですが、蔵番を置いたことで熟成させた蕎麦の出荷もできるようになりました」

丸抜きの袋を持つ船津さん
蔵番で熟成させるのは殻を剥いた丸抜き。蕎麦店からのリクエストに応じて出荷している。

こうした画期的なアイデアを取り入れながらも、船津さんのなかで一貫しているのは「初めに農ありき」という姿勢だ。会社を辞めて戻った時、貞夫さんはこう話したという。
「蕎麦で商いをするには、まず蕎麦づくりの原点を理解すること。それが分かっていないと経営を間違えるよ」
その真意を実感したのは、前回も書いた中耕作業を初めて取り入れたときだった。蕎麦の新芽の両脇を浅く耕し土寄せをする中耕は手間のかかる作業だ。これをしなくても蕎麦は育つが、やってみると収穫量が格段に上がったのである。
「努力をすればお金は自然とついてくる。逆に、お金儲けのために何かをするとどこかで綻びが出てくると父は教えたかったのでしょう」

1、農を学び
2、工を学び
3、商を学ぶ
是 即ち継続の原点なり

「みよしそばの里」の社是にもその想いは刻まれている。

蕎麦との向き合い方を教えた貞夫さんは2017年に77歳で他界。平成14年度の「全国そば優良生産表彰」で農林水産大臣生産局長賞を授与されたときには「卒業証書をもらった」と笑顔を浮かべていたという。
「亡くなるとき、父は『お前は蕎麦にとらわれる必要はないよ』と言い残しました。『自分は若いとき、近所の人たちに助けてもらって畑を守ることができた。その恩返しで蕎麦の栽培を続けてきたけれど、お前は好きなように生きればいい』と。その言葉があったから、今も続けていられるように思いますね。明日辞めてもいいと思っているから、自由にやりたいことができるんです」

「蕎麦は遊び」と言って全身全霊を注いできた父。その畑を継承した船津さんもまた、違う形で全力で“遊び”を謳歌している。

蕎麦の芽
芽を出したばかりの愛らしい蕎麦。赤い茎がトレードマークだ(撮影/杉田賢治)

文:上島寿子 写真:岡本寿、杉田賢治(トップ画像)

上島 寿子

上島 寿子 (文筆家)

東京生まれで、銀座の泰明小学校出身。実家がビフテキ屋だったため、幼少期から食い意地は人一倍。洋酒メーカー、週刊誌の記者を経て、フリーに。dancyuをはじめ雑誌を中心に執筆しています。