神亀酒造・小川原センムが人生後半になってから出会った得難い友。それが、東京・本所吾妻橋「ニシザワ酒店」会長・西澤亨(とおる)さんとの関係だ。 日本酒業界の重鎮といった立場で多くの蔵元たちから慕われ、後進の指導にあたっていたセンムが、仕事を離れてほっと一息つくときに、ゆっくりと盃を傾け、共に語り合ったのが西澤さんだった。
「本醸造から添加アルコールを抜いたら、純米酒になるという考え方は大間違い。“醸造アルコールを添加しないだけの酒”と“純米酒”の造り方とは違うんだよ」。
これは、晩年の小川原センムが繰り返し語っていたことだ。
日本酒の表示上の分類では、純米酒とは、米と米麹のみで醸造した酒となる。ところが、ラベルの表示義務には入っていない醸造用の薬剤もある。それが「酵素剤」と呼ばれる薬剤だ。
古来より「一麹(こうじ)二酛(もと)三造り」という奥義があるように、日本酒造りにおいてもっとも肝心要といわれるのが麹造りの行程である。仕込みに使用する米麹とは、麹菌の酵素の力によって蒸し米のでんぷんが糖へと変化したものだ。しかしながら、この麹の力を人工的に補うために酵素剤を添加するという醸造法も、近年は増えてきている。これをセンムは憂いていた。
「日本酒は米と米麹の酒」だからこそ、良質の米を育て、長く培ってきた技術で良い米麹を造り、酒を醸す。そうすることが醸造家としてのセンムの矜持だった。しかしながら、麹の力をないがしろにして薬剤に頼るという酒造りは、日本酒の業界が長く積み上げてきた麹造りの技術を失いかねず、掌中の宝を手放すような脆弱なものとセンムの目には映っていた。
「酵素剤を使った酒は、熟成させることはできない」、「日本酒を熟成させる、という前提がないと、何をやってもいいということになってしまうんだな」。
西澤さんは何度となく、センムの憤りの言葉を耳にしている。それは日本酒が根底から変化してしまうことへの危機感から出たものだった。
「センムは、米が良い年には、無理しても酒を造れという考え方の人でしたね。逆に米が悪い年は、無理して造ることはないよと。それは、良い酒であれば熟成させることができるからですよね。酵素剤に頼った酒では、そんなことはできない。そういう基本的なことに気づかぬ業界にセンムは、相当、怒ってましたね。自分の病気を知った時、自分の仕事をなし遂げるためには、あと十年欲しい、とセンム自身も言っていましたけれど。本当に、あと十年生きていてくれたら、純米酒の世界も違ったものになっただろうと思いますね」。
あと、十年。しかし、その願いは叶わず、2017年4月23日に小川原センムは膵臓がんにより永眠。その最後までを付き添い、死に水をとったのは、ほかならぬ西澤さんだった。
二日間、意識の戻らなかったセンムは、亡くなる直前に大きな瞳を見開いた。その瞬間に西澤さんがさっと差し出した水をコクリと飲み、きれいな顔立ちのまま安らかに目を閉じた。
「次に会うときも私を導いて下さい」、今わの際に西澤さんが呟いた言葉を聞きながらの旅立ちだった。
「おとうさんは、本当にきれいに逝ったなあと思った」と妻の美和子さんは回想する。その場にいた筆者も同様の感慨を持った。
あのとき、西澤さんは、どうしてあんなに見事にお水を差しだすことができたのだろう。センムが逝って6年。今回、初めてそれを訊ねてみると「ずっとセンムを見ていましたから。お水を欲しがっているなとわかりました」。
病気の発覚以来、西澤さんは以前にも増してセンムのもとに通い続けた。自宅で療養している時は蓮田へ。入院治療をしている時は、有明がんセンターへ。病床でも二人は長く語り合い、西澤さんは夜間に病院の通用門から出て帰宅していたそうだ。
西澤さんにとって神亀酒造との出会いは、酒販店としてのその後を大きく変えるものとなった。同時にそれは、人生そのものを大きく変えた、唯一無二の得難い友との出会いでもあった。それはセンムにとっても同様の思いだったことだろう。
「センムは……本当に面倒見のいい人でしたね。ああいう人は、ほかにはいないよね、ほんとにね。ほかの蔵元さんのことも、いつも気にかけていました。一緒に飲んでるときに、よその酒のことで気がつくことがあると、その場で蔵元に電話したりしていましたもんね。『なんだこれは』なんて、コゴト言ったり(笑)」。
センムと二人で通った「志婦や」に、西澤さんは今でも時折り出かけていく。
「最近、聞いたんですけどね、私たちがいつも座っていた席は、店の入り口からすぐのカウンターだったんです。その席をね、今でも店が混まない限りは、ぎりぎりまで空けておいてくれているそうなんですよ」。
そこは、西澤さんとセンムの特等席。二人の姿をカウンターの内側から見つめていた店の主は、そんな思いで在りし日の常連客を偲び続けていたのだった。
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子