世界の○○~記憶に残る異国の一皿~
南米チリの森の中のパン屋さん|世界の旅①

南米チリの森の中のパン屋さん|世界の旅①

今月をもって本連載「世界の〇〇、記憶に残る異国の一皿」は終了となります。2020年4月から約3年。奇しくもコロナ禍の時期と重なりましたが、海外になかなか出られなかった状況下、拙稿で旅している気分を味わってくださった方がいれば、これ以上の喜びはありません。 最後を締めくくるお題、すなわち今月のdancyu本誌のテーマは、ずばり「旅」。そこで筆者が海外で食べたとりわけ印象深い“一皿”をいくつか紹介して、幕を引きたいと思います。

まるで絵本の中の世界

世界一周自転車旅行の途上、南米チリの広大な森林地帯でのことだ。
峠を越え、深い谷底へ下りていくと激しい雨が降り出した。慌てて雨具を身につけ、さらにこいでいく。
森の中から、絵本に出てきそうな可愛い小屋が現れた。「PAN de MANO」と書かれた看板が立っている。「PAN」はパン、「MANO」は「手」――手づくりパンのことだ。どうやら売店らしい。
近づいていくと、小屋の窓に設けられたカウンターの向こうに、5歳と8歳ぐらいの2人の女の子がいた。姉妹のようだ。髪をいじりながら笑い合っている。2人の透き通るような白い肌が雨の中でぼんやりと光っていた。森の中で妖精に出会ったような気分だった。

昼食を食べたばかりで腹は減っていなかったが、「パンはある?」と聞いてみた。彼女たちはちょっと緊張した面持ちで首を横に振った。
雨が強くなってきた。子供2人が入るといっぱいになるその小さな小屋には、雨を避けるひさしもなかった。小屋を取り囲んでいる木立の下に簡素なベンチがあり、そこに座って雨宿りをする。葉のすきまからときおり雨粒が落ちてきた。だんだん体が冷えてくる。
ままごとのように店番をしている女の子たちを見ながら、学校はどうしているんだろう、と思った。ここに来るまで集落はおろか人家も一切なく、何十キロも深い森が続いていたのだ。

店の背後に小高い丘があった。上方に家が2、3軒立っている。1軒の家から女性が現れ、籐かごを抱え、傘もささず小走りで下りてきた。かごには布がかけられ、白い湯気が上がっている。
彼女は店の前に来ると、「寒くないかい?」と女の子たちに声をかけた。「ううん、大丈夫」と少女たちが答える。女性は微笑み、藤かごをカウンターの上のバスケットに傾けた。丸いパンがドサドサと10個ほど落ち、湯気が上がった。
母親と思しきその女性は踵を返し、長い坂道を、雨に濡れながら、歩いて上っていった。

僕はベンチから立ち上がり、パンを1個求めた。少女は焼きたてのパンを紙袋に包んで渡してくる。受け取ると、熱が指先に伝わってきた。ホカホカと上がる蒸気に、香ばしい匂い。かぶりつくとパンの熱と小麦の甘みが口内に広がっていった。1個食べ終える頃には、雨で冷えた体の内側に陽だまりのような温もりができていた。
雨は降り続き、白い靄がいつの間にか山を完全に覆っていた。ときどき車が停まり、パンや手づくりの小物を買っていく。

母親が再び籐かごを携えてやってきた。パンが店のバスケットに落ち、湯気を上げる。僕は再びパンを買い、それを懐に抱えて暖をとりながら、雨の中、丘を歩いて上っていく母親の、どこか凛とした後ろ姿を見つめていた。もしかしたら、彼女は2人の娘と3人だけで、この森に住んでいるんじゃないか、と思った。
母の背がだんだん小さくなり、家に消えた。煙突からは白い煙が上がっている。家の窯だと一度に10個程度しか焼けないのだろう。焼き上がるたびに、母は丘を下りて娘たちにパンを渡し、また丘を上って、パンを焼く。延々とそれを繰り返す。誰もいない森の中で、彼女はこれから先、何度丘を上り下りするのだろう......。

雨は一向に弱まる気配がなかった。白くけぶる森を眺め、母親が下りてくるたびに熱いパンを買って暖をとった。雨の音を聞きながら、生き物のように動く靄をぼんやり見ていると時間の観念が次第に失われていき、いつの間にか雨宿りを始めてから4時間が経っていた。何度目かに母が坂を下りてきたとき、話しかけてみた。丘の上の家は民宿もやっているという。

その夜、母親は温かいカボチャのスープを僕に出してくれた。ろうそくの光の中でそれをすすり、パンを食べる。家には電気がなかった。この山奥で、母子はやはり3人だけで暮らしていた。
「ねぇママ、今日はすごいの、7000ペソ(約1600円)も売れたのよ」
女の子たちは無邪気に笑っている。頼もしい笑顔だった。母は優しさと倦怠の両方が混じったような目で2人の娘を見つめ、微笑んでいる。ろうそくの光が母と娘の表情に深い陰影をつくっていた。
「この谷は1ヵ月に25日雨が降るの。60キロ先の町まで行けば天気は変わるわ」
母親はそう言って僕にも微笑んだ。

翌朝、雨は少し弱まっていた。
山を越えて森を抜け、60キロ先の町に着くと、空は本当に晴れ上がり、温かい日差しに包まれた。タンポポのような黄色い花が野原一面に咲き誇り、光を浴びてちろちろと揺れている。

僕は力を抜いてゆっくりペダルを回しながら、母子のことを考えていた。
昨日のことなのにもう記憶がぼんやりし、現実感がなかった。
あの谷では、今も雨が降っているのだろうか......。
温かい陽だまりの中を、自転車はシュルシュルとすべるように静かに進んでいた。

文・写真:石田ゆうすけ

石田 ゆうすけ

石田 ゆうすけ (旅行作家&エッセイスト)

赤ちゃんパンダが2年に一度生まれている南紀白浜出身。羊肉とワインと鰯とあんみつと麺全般が好き。著書の自転車世界一周紀行『行かずに死ねるか!』(幻冬舎文庫)は国内外で25万部超え。ほかに世界の食べ物エッセイ『洗面器でヤギごはん』(幻冬舎文庫)など。