dancyu1月号「いま、東京で行きたいのはこんな店です。」特集に掲載した“東京 食の職人魂”。1948年創業の銀座「カフェ・ド・ランブル」は、その深く清らかな味わいの一杯を求めて、海外からも多くの人が訪れるコーヒー専門店です。そこで、誌面では紹介しきれなかった店の歴史、創業者から受け継がれるオリジナルな「技」を、ノンフィクション作家の中原一歩さんが、さらに深掘りしていきます。
今から20数年前、初めて同業の先輩に連れられて、銀座八丁目にある「カフェ・ド・ランブル」を訪れた。仄かに薄暗いU字型のカウンターに座るなり、その先輩は眼前でコーヒーを淹れる少し強面のマスターこと、現在の店の主人・林不二彦さんにこう切り出した。
「7番をダブルで2つください」
当時、コーヒーといえば「ホット」か「アイス」しか知らなかった私は、その注文の仕方がとても大人に見えた。後に知ることになるのだが、「7番」とは符丁で、正式名称は「ブラン・エ・ノワール」。またの名を”琥珀の女王”というスペシャリテだった。ダブルというのは通常の倍の量という意味だ。
しばらくして目の前に差し出されたそれは、ドキリとするような気品を漂わせていた。シャンパングラスの中で、コーヒーの黒とミルクの白が、くっきりと二重の層を作っている。こんな大人びた洒脱な飲み物は見るのも、口にするのも初めてだった。
「これをかき混ぜずに一気に飲むとうまいんだ」
そう言って先輩は一気にグラスを空にした。私も見よう見まねで右に倣ったのだが、その時、生涯忘れることができない味覚の地殻変動を体験することになる。
「世の中にこんなに旨いコーヒーがあったのか」
それまで、やっつけで飲んできた単に苦いだけの代物とはまったく別の飲み物だった。香り高い甘美なコーヒーにミルクのコクが相まって、いつまでも口内に滞留しておきたくなる。コーヒーに対する概念がザワザワと覚醒してゆく衝撃の体験だった。
「濃い目に抽出したブレンドコーヒーにグラニュー糖で甘さをつけていますから、ミルクが沈まないのです。使っているのは生クリームではなく、無糖の練乳のエバミルクです」
林さんがそう説明してくれたと記憶している。私はいっぺんにこの店の虜になってしまった。しかし、20歳になったばかりの私にとって、銀座という街は身分不相応の場所だった。それに駆け出しのライターにとって正直、一杯、千円近くするコーヒーは特別な日のご褒美だった。だから本格的に通えるようになったのは、ここ10数年のことだ。
最初は琥珀の女王、一本槍だったが、やがてストレートコーヒーにも興味を持つようになった。とくに他では味わうことができないオールドコーヒーは、私の味覚領域を拡大させた。ワインの味が原材料であるブドウで決まるのと同じように、買い入れる生豆の状態がよくなければ、すべてが台無しである。しかし、湿度管理された貯蔵庫で、ある一定期間寝かせた豆は、飲み手の想像を凌駕する複雑で奥深い風味に化けることがある。それを思い知ったのが20年熟成させた貴重なモカマタリの深煎りだった。これを特注の波佐見焼のドゥミタッスカップで味わうのが、私の習慣となった。
当時、焙煎室の隣のテーブル席は、予約席と称して、創業者である関口一郎さんが陣取っていた。その人生は、日本におけるコーヒーの近代史、そのものだ。1913年生まれの関口さんは、浅草の左官職人の家に生まれた。7人兄弟の長男。コーヒーとの邂逅は、大学受験の時、居眠りを防止するために飲んだコーヒーの味だった。そして、浅草、神田、銀座などの喫茶店を飲み漁ったそうだ。
しかし、趣味だったコーヒーを一生の生業とするきっかけが面白い。時は太平洋戦争の真っ最中。大学で音響工学を専攻していた関口さんは、技術者だったことから徴兵を免除された。代わりに当時、後楽園にあった兵器修理班に入隊させられた。その生活の中で米軍の供給物資の中にコーヒー豆を見つけたのである。これを自己流で焙煎して仲間に振る舞ったのがやみつきに。当時の豆は粗悪なものが多く、だからこそ、どうすれば旨いコーヒーを淹れることができるか。寝るのを惜しんで研究に没頭したという。そして終戦後、1948年、銀座に「カフェ・ド・ランブル」をオープンさせたのだ。関口さんの甥にあたる林さんは高校卒業後、18歳で店に入った。林さんは師匠でもある叔父をこう評する。
「もともと技術者なので、これと思ったら何をおいてもその研究に没頭しないと気が済まない。趣味を仕事にできた希有な人ですよ。それでいて、遊び心がある人でした。そうでなければ、あの時代に自宅にエイジングルームを置いて、高級豆を10年寝せて使ってみようなんて思わないでしょう」
カフェ・ド・ランブルの尊さは、そのすべてがオリジナルだということに尽きる。例えば、客の注文が入ってから、予め自家焙煎したコーヒー豆を特注のグラインダーで粉砕し、手縫いの綿ネルフィルターを使って、客の目の前で一杯ずつ抽出するスタイルは、関口さんが考案し確立したものだ。今では「ランブルスタイル」と呼ばれ多くの愛好家の間で普及している。
カフェ・ド・ランブルを構成するすべての味、道具に関口のコーヒー人生が宿っている。
抽出の際に使う注ぎ口が鶴の嘴のような琺瑯ポット。焙煎した乾いた豆を、極限まで微粉を出さずに粉砕する精密機器のようなグラインダー。生涯をかけて開発に執念を燃やした焙煎器……。2018年、関口さんは103歳で亡くなったが、今も店のあの「予約席」には当時のまま、コーヒーに関する古い書籍や書類が積み上がっていて、創業者の気配が今も棲みついている。
2022年暮れ──。銀座の街に賑わいが戻ってきた。カフェ・ド・ランブルでは、来客を知らせるカウベルの音が鳴り止まない。ご時世もあって海外からのインバウンド客は多い。とくに、韓国、台湾から若い世代の客が挙って増えた。と同時に銀座という街で働く、また、この街を止まり木にする古くからの馴染み客も変わらずやってくる。この場所に通っていると、この店の味は客によって守られていることが分かる。
私も初めてこの場所を訪れた「あの日」から、20数年の月日が流れた。ようやく、ひとりでカウンターに座っても格好がつく年齢となった気がする。私も時々、あの時の先輩がそうしたように、年の離れた後輩を連れて2人でカウンターに座る。そして、何も言わずにこうオーダーを告げる。
「7番をダブルで2つください」
差し出されたシャンパングラスを恐る恐る口にすると、その後輩はあの頃の私とまったく同じ驚きの顔をした。そこには「世の中にこんなに旨いコーヒーがあったのか」と書かれている。その光景をカウンターの中から林さんが控えめに見守っている。こうして、人から人へ「おいしい」のバトンは継承されてゆく。「カフェ・ド・ランブル」は「いま、行きたい店」であると同時に、20年後も「通っていたい」、そんな店なのだ。
年末年始は2022年12月30日~2023年1月8日まで休業。
文:中原一歩 撮影:渡部健五