蕎麦の伝統にとらわれず、わが道を進む「ら すとらあだ」の日比谷吉弘さん。その世界観はどのようにつくられていったのだろう。4回目は人物像を追った。
「ら すとらあだ」はイタリア語で「道」。店名のままにわが道を進む日比谷さんが、蕎麦の世界に引き込まれたのは20代の頃だった。
「高校を卒業して、JRA(日本中央競馬会)の場外馬券場でアルバイトをしながら、手に職をつけられるもので自分がやりたい仕事を探していたんです。旅行が好きで、バイト代を貯めて初めて行った海外がヨーロッパ。一ヶ月かけて、イタリア、ドイツ、ポルトガル、スペインと周り、そのあとも、お金を貯めてはちょこちょこと旅行していました。そのときに知り合った現地の人から日本の文化を聞かれることがよくあって。誰もが自国の文化を誇らし気に語るんですが、自分は何も語れない。日本の文化を知らなかったんです。誇れる文化ってなんだろう。そう考え始めてから、蕎麦への興味が湧いてきました。直接のきっかけは岩手県平泉の地水庵さんですね。たまたま家族で訪れたのですが、手打ち蕎麦のおいしさを初めて知った。以来、蕎麦の本を読んだり、手打ち蕎麦屋さんをまわったりしてのめり込んでいきました」
自分も蕎麦をつくる側にまわりたい。そう思ったものの、いきなり職人の世界に飛び込む勇気がなく、まず門をくぐったのは蕎麦打ち教室だった。「一ヶ月のコースを体験して卒業できるぐらいにハマったら、次のステップに進もう」。そう考えていた日比谷さんを運命の糸はある人と引き合わせる。千葉県柏にある名店「竹やぶ」の阿部孝雄さんが特別講師として教壇に立ったのだ。この縁で、阿部さんから紹介された亀有「吟八亭やざ和」で週2~3回、製粉や蕎麦打ちを見せてもらうようになった。弟子入りではなくあくまでも研修。この間もJRAのアルバイトは続けていた。バイト料がよかったこともあるが、性格的に職人の世界にどっぷり浸かるのは難しいと自己分析していたのだろう。
そんなある日、「竹やぶ」の阿部さんから、「人手が足りないからうちで働かないか」という声がかかる。
「ありがたいと思う半面、ついにこういう時が来ちゃったかと。阿部さんにはいろいろ気にかけていただいていましたが、中に入ったら師匠と弟子。別世界じゃないですか。自分はやっていけるのか、不安だったんです」
JRAのバイトを辞めて「竹やぶ」に入ると、兄弟子たちに揉まれながら修業の日々が始まった。当時あった六本木店を皮切りに、箱根店、柏本店とまわって蕎麦の文化を体感した。しかし、1年で退職。ガチガチの蕎麦屋仕事はやはり性に合わなかったのだ。
修業先を後にしたとはいえ、蕎麦が好きであることには変わりない。当時、芝にあった(現在は三田に移転)「案山子」で働き、その後、神田「眠庵」に籍を置くことになった。職場は店主の柳澤宙さんとの2人体制。蕎麦屋での修業経験を持たない柳澤さんは、職人というより研究者に近い。日比谷さんには馴染みやすい環境だった。
「『眠庵』では1年半ぐらいお世話になりました。蕎麦は基本的に柳澤さんが打つので、僕は賄い用を打たせてもらうか、たまに営業中で手がまわらないときに少量を追い打ちするぐらい。柳澤さんは全国の蕎麦の産地を回っていて、蕎麦に関する知識も深いので、その話をつまみに一緒にお酒を飲む時間がすごく楽しかったですね。尊敬する蕎麦職人さんの一人です」
独立を考え始めた頃、思いがけない出来事があった。柳澤さんが骨折して蕎麦を打てなくなり、1ヶ月間、店をそっくり任されることになったのだ。
「柳澤さんには『好きなようにやってください』と言われましたが、戸惑いしかなかったです。当然、同じようにはできないので、それをご了承くださるお客さんにだけ来ていただいて。付け焼刃の代理店主なので、ハリボテ庵と名乗っていました」
仕込みから営業まですべて自分の裁量でしてみると、1日のペース配分がわかるようになってきた。「眠庵」の常連客からの評判も悪くない。その経験が自信につながり、その翌年、2012年5月25日に「ら すとらあだ」はオープンした。見切り発進的な独立を不安視する声もあったが、動じることがなかったのはつくりたい蕎麦のイメージが明確にあったからだろう。今ある道具で、自分の体を使って表現する蕎麦ーー。産地の個性を自然のままに打ち分けたその味は、蕎麦の概念を覆すほどインパクトがあり、常連客が瞬く間に増えた。その一方で、今までにない営業スタイルを否定的にみるお客がいたのも事実だ。特に指摘されたのはオペレーションの悪さ。元来、不器用な上、開店当初は不慣れなこともあり、「注文したものが出てくるのが遅い」という声がSNSにあがるようになった。
「オープンして2~3年はいろんなことを言われましたね。改善しようと頑張るけれど空回りするばかり。普段やらないことをやると、綻びがでてしまうんです。1人でやるには限界もあって、結局、自分が苦しむことになる。だから、合わないお客さんがいるのは仕方ないと割り切ることにしたんです。ネットの書き込みを読んで愚痴るエネルギーは、別の方向に向けたほうがいい。もちろん、自分のできる範囲で工夫はしました。スムーズに料理を出せようおまかせのコース一本に絞ったのはその一つ。幸い、うちの営業スタイルを面白がってくれるお客さんは多く、チーム日比谷の一員みたいな感覚で来てくださる。ありがたいですね」
これまで自分に課してきたのは、他人を羨ましがらないということ。「うちの店ももっと広ければ」「自分もこんな設備が持っていたら」と羨むのでなく、今の条件下でどこまでできるかということだけに目を向けるようにしてきた。
「だから、どんな環境でもやっていけるという自負はありますね。与えられた中でずっともがいてきましたから。もちろん、道具を含め環境が整えばよりいいものができるとは思うので、そういう中での表現もこれから考えていきたいですね」
文:上島寿子 写真:岡本 寿