東京・中野坂上で10年。「ら すとらあだ」で待つのは、蕎麦屋の枠にはまらない未体験ゾーンの蕎麦と酒肴の数々だ。その味はいかにして生まれているのか。店主の日比谷吉弘さんがつくり出す無二の世界を、5回にわたって探ってみたい。
丸ノ内線の中野坂上駅から歩いて3〜4分。何度も行ってはいるものの、「迷わないかな」といつも少し不安になる。住宅地の路地にある店は、街並みに溶け込み切ったごくごく普通の昭和な一軒家。看板はない。暖簾もかかってない。下りかけたシャッター(完全に下りているときもある)と外灯に描かれたてんとう虫のイラストだけが手がかりだ。知らずに通りかかったら、そこが店だとは誰も気づかないだろう。
店内もまた“普通”の店とはちょっと違う。扉を開けると小さな玄関があり、靴を脱ぐとき「お邪魔します」と思わずつぶやいてしまう。玄関のすぐ右手にある客席は、カウンター3席にちゃぶ台スタイルの低いテーブルが2台。こぢんまりとした空間はまるでお茶の間みたいだ。
「ら すとらあだ」が開店したのは2012年。ちょうど10周年を迎えた「蕎麦屋」だ。カギカッコをつけたのは、いわゆる蕎麦屋とはかなり違うから。言い換えるなら規格外の蕎麦屋なのである。
隠れ蓑を纏ったような店構えはその一端だが、「偶然そうなっただけですよ」と店主の日比谷吉弘さんは苦笑いする。
「2階を蕎麦打ちや製粉の場所として使える一軒家を探していたら、たまたま『飲食店可』でこの物件が見つかったんです。新宿から近いし、家賃も手頃。トントン拍子で開店になったので看板までは手が回らず、後からつけようと思っていたんです。でも、いつしかお客さんが店を探すのを楽しんでくださるようになって、だったらこのままでいいかなと(笑)」
もちろん、規格外なのは店だけじゃない。メニューはおまかせのコースのみで、10品の酒肴の後に、自家製粉の手打ち蕎麦が登場する。日によって内容は替わるが、冷たい蕎麦5種類と汁を張った蕎麦1種類が基本。昨今、産地違いの食べ比べができる店は増えているけれど、これだけのバリエーションを用意する店は珍しいだろう。
驚嘆と歓喜を誘うのは味の多彩さだ。細打ちには旨味の粒がこぼれ出すような超粗挽きもあれば、繊細で鮮烈な味わいの二八蕎麦が出てくることもある。対照的なのは太打ちだ。ずんぐり太くむちむち弾み、噛むほどに穀物の香りと甘味が迸る。リボンのような平打ちはさらに個性的。するんとしなやかな蕎麦が舌の上を優しく撫でながら澄んだ甘味を撒き散らす。鮮やかな味わいの変化はさながら蕎麦の万華鏡。飽きるどころか、エンドレスにリピートしたくなる。
「原料として仕入れる蕎麦(蕎麦の実)は年間で20種類ほど。まずは産地を決め、どれをメインにするかなど流れを考えながら打ち方や切り方を変えていきます。うちは丸抜き(殻を剥いた蕎麦の実)が主体ですが、玄蕎麦を殻ごと挽いて打った蕎麦も加えるようにしています。同じ玄挽きでも麺の形状を変えると味わいが変わって、それがまた面白いんです」
聞けば、産地、製粉、打ち方だけでなく、茹でた後の洗い加減や締め加減もそれぞれ替えているというから驚いた。最初の細打ちはよく洗って冷たい水できゅっと締め、あとから出す太打ちや平打ちは洗い加減をゆるくして水温も常温に近づける。つるっと軽快に手繰れる粋な蕎麦から、徐々に野暮ったい蕎麦へーー。そんなイメージで洗い方や締め方をコントロールしているそうだ。
「蕎麦は冷やすほど旨味が閉じるので、細打ちでも冷たく締めすぎないようにはしています。もう一つ、意識するのはぬめりですね。蕎麦がぬめるのはよくないとされていますが、自分はぬめっているお蕎麦が好きなので洗い加減は抑えています。ぬめりがあったほうが、塩がまとわりつきやすい感じがするんですよね」
実際にどんな蕎麦が出されているのか。夏のある日のラインナップを紹介しよう。
こうした産地違いの蕎麦の後に出される汁蕎麦は、夏なら冷かけ、冬なら温かい蕎麦になる。この日は冷温2種を特別に出してもらったが、澄んだ汁に泳ぐ蕎麦を見ると色も太さもバラバラのような……?
「汁蕎麦には、それまで出した蕎麦の平打ちをランダムに混ぜているんです。蕎麦粉の粗さはおのおの違いますし、二八と十割もあえて混在させています。それらを一緒に茹でるとちょっと固かったり柔らかかったりと食感に変化が出て楽しいかなと思って」
ランダムな蕎麦とわたり合う汁がまた素晴らしい。
冷かけのだしに使うのは3年ものの鰹の本枯れ節。薄口醤油で仕立てたかけ蕎麦用のかえしと合わせて、キーンと冷やしてある。角のないまろやかな味わいで後味は爽快。蕎麦の甘味とも調和して、グビグビ〜と飲み干さずにいられない。
対して、温かい蕎麦のだしは、なんと生ハム!親交のある「サルメリア69」に分けてもらったブロックの生ハムから丁寧に旨味を抽出し、薄削りの鰹だしと合わせている。肉の旨味はしっかりありながら味わいは清らかで、素材から滲み出た酸味が絶妙なバランスを生み出す。この汁をつまみに酒も進み、長っ尻になるのは必至。そもそも生ハムを蕎麦のだしに使うなんて、誰が思いつくだろう。
温蕎麦には、滋賀県の精肉店「サカエヤ」の牛もつや和牛肉を使ったり、岩手県「石黒農場」のホロホロ鳥で仕立てたりと、食材の選択が意表を突く。特に牛もつ蕎麦は脂たっぷりの小腸を使うのでこってりなのかと思いきや、意外なほど淡麗でクリア。それでいて深い旨味が芯にあり、誰もが唸る逸品だ
蕎麦屋の種ものといえば、鴨南蛮や天ぷらそば、玉子とじなどがお馴染みだけれど、その“いつも”の世界からひょいっと飛び出し、自由におおらかに自分の世界を描き出すところに、「ら すとらあだ」の真骨頂があるのだろう。
文:上島寿子 写真:岡本 寿