シネマとドラマのおいしい小噺
テイクアウトカウンターのその向こうへ|映画『恋する惑星』

テイクアウトカウンターのその向こうへ|映画『恋する惑星』

映画やドラマに登場する「あのメニュー」を深掘りする連載。第19回は、ビビッドでポップな香港映画です。制作から20年経った今でも、4Kレストア版が劇場公開される名作……舞台は、惣菜店「ミッドナイト・エクスプレス」!

香港・九龍の惣菜店を舞台に、街に行き交う人々の物語が描かれる。1995年に日本で公開されると、その洗練された映像は観客を魅了した。ウォン・カーウァイ監督が熱狂的支持を得るようになった記念碑的作品である。

テイクアウト惣菜店で働き始めたフェイ(フェイ・ウォン)。ベリー・ショートの彼女はとてもキュートだ。カウンターの前に立つ彼女は、いつも音楽に合わせて夢見がちに身体を揺らしている。

スレンダーなフェイとは対照的に、食べ物の詰まったカウンターはとても大きい。ピザや魚のフライなど持ち帰り総菜やサラダ用の野菜が並び、メニューにはカレーやサモサなどインド料理もそろっている。カウンターの上には大サイズのプラスチックボトルが8本、ずらりと並ぶ。黒、茶色、オレンジ、白、緑、さまざまな味のドレッシングやソースが、人種も嗜好も多様な客に併せて提供される。フェイの後ろにはアラブ式の回転ロースト肉の塊が鎮座し、その隣は真っ赤なコカ・コーラのドリンクサーバー。香港ならではの多国籍フードが詰まったデリカテッセンなのだ。

警官663号(トニー・レオン)は店の常連客で、いつも恋人のためにサラダを買いに来る。しかしほどなく彼はサラダをオーダーしなくなり、恋人と破局したと知れる。この店では、そんなふうに食べ物を通して客の生活が垣間見える。

街中でフェイと663号が遭遇し、二人の距離が近づく場面から物語が生き生き動き始める。登場するのは大量の玉ねぎ。両腕でも抱えられないほど大きなカゴにぎっしり詰めた仕込み用の玉ねぎを、華奢なフェイが市場から店に運ぼうと四苦八苦。そこで昼食を食べていた彼にぶつかってしまう。

チャーシューを載せたごはんをがつがつ食べていた彼は、彼女のために荷物を運ぼうとあわてて肉とごはんをかき込むと、まだ皿にだいぶ残したまますくっと立ち上がった。そうするのが当たり前といわんばかりの身のこなしの軽さに、人の良さがにじみ出る。山盛りの玉ねぎを肩に載せ大汗をかきながら運ぶ663号と、歩調を合わせ会話を交わすフェイ。その表情から、高揚感が伝わってくる。

彼に関心を持ったフェイはやがて大胆な行動に出る。663号の部屋の合鍵を使い、少しづつ家の中を改造していくのだ。ベッドカバーを掛け替え、古びたタオルや石鹸を新調し、ぬいぐるみまで取り換える。元恋人を忘れられず荒んだ暮らしをする男に、新しい風を吹き込もうとする。

フェイのたくらみのおかげで、彼の食生活も変化していく。イワシのオイル漬け缶は、トマト味からしょうゆ味(フェイの好み)にすっかり入れ替わっている。工作でもするように、缶のラベルをはがし、ひとつひとつ貼り替えて棚に並べたのだ。彼はわずかな違和感を覚えつつも、細い香港麺との相性は悪くないなと思う。おおらかでちょっと鈍感な男は、知らず知らずのうちに胃袋を掴まれてしまったらしい。ついに二人は部屋で鉢合わせ、彼はフェイの気持ちにようやく気づくことになるのだが――。

時が経ち、フェイは意外な姿になってあの店に戻り、663号もまた思わぬ転身を果たしている。わずかな月日でも大きな変貌を遂げるのが、この街なのだ。そしてそれぞれに夢を叶えた二人の新たな物語が、また始まる。

おいしい余談~著者より~
返還前の香港の空気感に、どっぷり浸れる作品です。街はむせかえるような熱気と湿度に包まれ、路地の隅々に情熱と夢が溢れていました。もう一つの物語の主人公であるモウ(金城武)は、恋の未練を断ち切るためにパイン缶を大量に食べますが、それも未来への通過儀礼のようで、爽快な余韻を残すエピソードになっています。

文:汲田亜紀子 イラスト:フジマツミキ

汲田 亜紀子

汲田 亜紀子 (マーケティング・プランナー)

生活者リサーチとプランニングが専門で、得意分野は“食”と“映像・メディア”。「おいしい」シズルを表現する、言葉と映像の研究をライフワークにしています。好きなものは映画館とカキフライ。