戦後初の「全量純米蔵」となったことを始め、業界にさまざまな革命を起こしてきた神亀の故・小川原良征(おがわはら・よしまさ)さん。東京農業大学入学以来52年、最期まで深く親しくつき合ってきたのが、京都府伊根町「京の春」「伊根満開」の銘柄で知られる向井酒造会長の向井義昶(よしひさ)さんだ。半世紀を超えての親交を続けた旧友が語る小川原さんの姿とは。
上の写真の中央が、向井酒造会長の向井義昶さん、左が長男で社長の崇仁(たかひと)さん、右は長女で杜氏の久仁子さん。3人とも東京農業大学の卒業生。会長の義昶さんは、農大で出会った小川原センムと50年以上も親しい友人であり続けた。崇仁さんは神亀酒造で2年半の修行を、久仁子さんは卒業前に神亀酒蔵での実習を経験している。
「小川原の第一印象は、お茶目で面白い奴。いたずら小僧みたいなことばかりして、ときどき同級生を怒らせては追いかけまわされて(笑)。私は『ヤメロー』と間に入って止める役で。最初からウマが合いましたね。その頃の農大の学長は山田正一先生。長野県「真澄」の蔵の7号酵母の分離に関わった先生です。7号酵母の研究では、塚原寅次先生も山田先生に協力されていました。その塚原先生の研究室、塚研に小川原も私も入った。そして塚原先生が『日本酒は、本来の純米酒に戻らないと』と話される講義(詳しくは連載第1回を参照)を聴いていたわけです」。
義昶さんは、学生時代をそう回想する。鷹揚な義昶さんと機敏な小川原さんとは、気の合うデコボココンビだった。1946年生まれ同士。埼玉県蓮田・神亀酒造が生家の小川原良征。京都府伊根・向井酒造が生家の向井義昶。跡取り息子二人の友情は52年間、文字通り生涯続いた。
「小川原はね、頭は良かった。リベラルな感じで。蔵を継ぐ気で農大に来たわけだから、勉強も熱心にしていました。私のほうは、農大そのもののバンカラで。小川原は蓮田駅から片道二時間以上をかけて通学。免許とってからはSUZUKIのベレットだったかな、スポーツカーで通ってくるようになりました。同級生は、味噌屋とか醤油屋とか造り酒屋とかの息子たち。みんなで車に乗って、美味しいラーメン屋に行ったり、神亀酒造にもよく泊まりに行きました。農大の仲間と夜行列車でスキーに行ったこともあります。その時、別の団体客が夜中まですごく騒いでいたんですが、小川原が『うるさーい!みんな、もう寝ているんだ、静かにしろ!』って怒鳴って。あの頃から正義感は強かったですね」。
農大卒業後、向井さんはすぐに伊根に戻って向井酒造を継いだ。小川原さんは神亀酒造に。埼玉と京都、物理的な距離は離れたが、小川原さんは蓮田から車を飛ばして伊根の蔵まで毎年遊びに来たという。
「うちの父親は、身体が弱くて病気がちだったんですよ。川魚が好きで鯉を釣ったりすると、蓮田から包丁一式持ってきた小川原が鯉のあらいとか鯉こくなんか作ってくれてね。父は大喜びでした。小川原も『おまえのオヤジは、素晴らしい人だな。おまえは駄目だけど』って言ってましたね(笑)。小川原は父に『義昶を頼む』と頼まれていたそうなんです。あとからそれを聞いて、ああ、親父は人を見る目があるんだなと思いましたね」。
向井さんもまた伊根から蓮田へと遊びに行った。1968年、卒業後に初めて小川原さんが醸した純米酒も、向井さんは新酒の時点で飲んでいる。
「これが純米酒だ、と出してくれたから飲んだけど、すごく辛くてね。言わないほうがいいかな、と思ったけど、友達だから正直に『これ、辛いだけじゃねえか。これなら焼酎を飲んだほうがマシだよ』と言いました。その時、小川原は黙っていましたけど。あとになってから『あのとき、お前にああ言われて、酒に幅が出た』と言っていました」。
塚原先生の影響を受けた二人の若者は、それぞれの蔵で純米酒造りを目指すが、どちらも周囲からの反対を受けた。
「小川原と二人で話したとき、純米酒を造ろうとすると税務署にいじめられて大変だというのは聞きましたね。私は私で、小川原よりも後のことですけど、大阪国税局の先生が仕込みの視察に来た時に『全部純米酒にしたい』と伝えたら『なにーっ!?』と叫ばれましてね。犯罪者扱いでした(笑)。だから、小川原とはよく、日本は国策を間違えたんだよなという話をしました。戦後の食糧難で米が足りない時ならともかく、もう米は十分足りているのだから、日本酒は純米酒という国の方針なら、お百姓さんも減反しなくていいのにな、と」。
その後、1998年から2期8年間、向井さんは伊根町の町長に就任。その間、酒造りの現場では娘の久仁子さんが杜氏をつとめることになる。久仁子さんも東京農大の醸造科で学び、卒業前の研修では神亀酒造で現場の仕事を学んだ。とはいえ、卒業したての23歳の女の子が突然杜氏という大役を背負うというのである。その肩の荷は重かった。
「父から突然、おまえが杜氏をやれと言われた時は、不安で不安で、吐きそうでした」。
当時を回顧する久仁子さんの言葉だ。
それでも久仁子さんは、十二歳年下の弟に蔵を渡すまでは「自分が蔵を守る」と決意して、重責を背負うことに。代表銘柄の「京の春」は海辺の町の酒として、地元の人たちが魚料理と共に晩酌を楽しむ酒だ。蔵人全員が年上の男性、という環境での酒造りは、精神的な負担も大きかったが、醸した酒を喜んで飲む人たちがいる仕事には、久仁子さん自身も喜びや造り甲斐を感じていく。農大時代の恩師・竹田正久先生との共同研究で開発した古代米の酒「伊根満開」は、ロゼワインのような美しい色と爽やかな甘み、酸味を持つ純米酒。若い女性杜氏が醸す新しい伊根名物として話題を呼ぶが、話題性だけでなく味わいそのものを支持する人たちを増やして全国区の人気銘柄となった。
一方、町長としての仕事と蔵の経営者としての仕事を兼任する義昶さんには、ある年、蔵の資金繰りがつかない、という事態が発生。父が悩む姿を見続けた久仁子さんは、小川原さんとの電話でその様子を話した。すると即日、向井酒造の口座に必要なだけの金額が振り込まれていたという。小川原さんからだった。
「自分の蔵だって楽ではないはずなのに、すぐに助けてくれた。小川原がいなかったら、今、向井酒造はないですね」(義昶さん)。
返済は長期の分割の予定だったが、蔵の経営が順調に戻った時点で義昶さんはすぐさま一括で返済をした。「そのときも小川原は『なんだよ、もう全部返したのかよ。俺がお前に威張れなくなるじゃねーか』なんて言っていましたね」。(この項、続く)
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子