「日本酒を変えた」男 ~神亀・小川原良征“センム”の軌跡~
神亀酒造でセンムが挑んだ「信念の仕事」とは②

神亀酒造でセンムが挑んだ「信念の仕事」とは②

1987年に戦後初の「全量純米蔵」(純米酒しか造らない酒造)となった神亀酒造。その指揮をとった小川原良征(おがわはら・よしまさ)さん(通称「センム」)は、自蔵のことのみならず、他蔵のためにも東奔西走。酒販店、飲食店を含め業界全体が連携していくことで日本酒の可能性を広げたい、との強い思いで疾走した。

「"熟成"や"燗"に耐えうる純米酒」を、仲間とともに

「センムのやることは、いつも時期が早すぎた」。そう言われることの多い小川原良征さんだったが、たしかに純米一徹ではあるものの、時代に先駆けての取り組みも多い。
そのひとつがすでに1980年代初頭の段階で飲み手を強く魅了したスパークリングの日本酒だ。これは、発酵中のもろみを粗漉しして瓶に詰めたもので、火入れをしていないもろみは瓶の中でも発酵を続け、炭酸ガスを溜めこむ。その炭酸ガスは開栓とともに噴き出すことになり、飲み手は、その酒の生命力と鮮烈な旨味の双方に驚かされた。これが初代「日本酒のシャンパン」と呼ばれた神亀の発泡にごり酒だ。

この酒の商品化は、純米酒を熟成に回すためになかなか換金することができなかった小川原さんが、生酒をすぐに販売することで米代を捻出しようとした苦肉の策だった。だが、日本酒が炭酸ガスを含んでいるとはよもや思わない消費者たちは、「開栓注意」の注意書きに気づかずに無防備に開栓。そのまま勢いよく噴出したにごり酒を浴びて服が汚れ、苦情が続出したという。日本酒をキーンと冷やす習慣がまだなかった時代で、百貨店にも酒用冷蔵庫はなく、クール宅急便の登場する1987年にはまだ間があった。しかし、この日本酒黎明期に小川原さんが発売に踏み切ったスパークリングの酒は、普通酒では飽き足らなかった地酒ファンたちの間で評判を呼んだ。この新しいジャンルの酒は、現在のAWA酒ブームの先駆けになったといえよう。

「神亀醸造場」の看板
神亀酒造となる以前の「神亀醸造場」の看板が現在も蔵内に架かる。この古い木製看板以外には、「神亀」と名乗る看板は蔵内にも敷地内にも見当たらない。
事務所内の一画
事務所内の一画には、神亀酒造の掲載記事、センムのスナップ写真などが無造作に貼られている。

1981年以降、池袋の酒販店「甲州屋」の児玉光久さんの推薦もあり、地酒専門店と呼ばれる居酒屋や酒販店の棚に神亀酒造の酒は、少しずつ並び始める。一度飲んだ人は、驚き感動してリピーターになるか、「純米酒は重い」と敬遠するかの二極状態ではあったが、神亀の知名度は徐々に上がっていく。

1987年に念願の「全量純米蔵」となった神亀酒造だったが、この頃の神亀酒造は、経営面でも大きな転機を迎えていた。長い取引先であった某銀行から借金の返済を催促され、蔵の売却を迫られるというギリギリの状況まで追い詰められていた小川原さんだったが、1988年、酒の神が手を差しのべたかのような出来事が起こる。
とある居酒屋で別の銀行勤務の人たちが神亀を飲み、その味わいに感動。「この旨い酒はどこの酒かと思ったら、蓮田の酒か!」と驚いて、後日、蔵まで訪ねてきたという。ところが、感動して飲んだ神亀の醸造所は古くて暗い小さな蔵、造り手は苦境のさなかにある。それを知った銀行マンは、負債の借り換えと融資を提案。酒は文化であり、文化を守るのも銀行の仕事、と銀行本来の社会的役割を果たしてくれたのだ。

蔵存続の危機から脱するやいなや、一息つく間もなく、神亀酒造は蔵を改築。同時に熟成酒造りのための冷蔵コンテナが続々と蔵の敷地内に並び始める。こうして純米酒造りの環境を整えた小川原さんは、その後、自蔵だけではなく業界全体の振興を願う傾向をますます強めていくことになる。

冷蔵庫、熟成庫
蔵の敷地内には、センムが着々と増やし続けてきた冷蔵庫、熟成庫が点在する。「全部で18庫。酒だらけです(笑)」と小川原貴夫・現社長。
冷蔵コンテナ
熟成酒への取り組みがひときわ早かったセンムが、昭和60年代に設えた最初の冷蔵コンテナ。中は熟成酒の瓶が積まれた宝の山。
詰め替え用のタンク
醸造後、あるいは熟成後の酒を瓶詰めする際に使用される詰め替え用のタンクも屋外に設置。

かねてより小川原さんが目指していたのは、業界内での純米酒造りの技術の共有だった。そもそも旦那気質で面倒見の良い性格だったが、全量純米蔵への転換が報じられてからは、経営に悩む地方の蔵元や酒販店の人々の来訪は増えるばかりだった。突破口を探して訪ねてくる人たちに小川原さんは、蔵の中をすべて見せながら相談事に耳を傾け、持っている知識は惜しまず教示した。
酒造りの技術が漏れぬように蔵同士の行き来を避ける風潮も世間にはあったが、小川原さんの持論は「千の蔵があったら千の味」。曰く「同じ基本を守っても水や米や気候の違いで、ちゃんとそれぞれの蔵の個性が出た違う酒が出来上がる。だから隠すことは何もない。全部見せる。互いが商売敵(がたき)になることなんてない」。その言葉には、「同じようにやれるものなら、やってみろ。やってみてくれ」の気持ちもあっただろう。

「純米酒造りは、単に添加アルコールの有無ではない。純米酒造りのための工程を組み直さなければならない」。そう確信する小川原さんは、蔵元同士が情報交換をし、純米酒造りを学び合う場を作ろうと考えていた。おりしも戦前の酒造りを知る酒造技術者・上原浩先生(1924~2006)との縁も生じており、二人は日本酒の復興を願う姿勢で共鳴。この上原先生を顧問に迎え、共に純米酒造りを学ぼうとする蔵元と酒販店に声をかけて1990年に結成されたのが「蔵元交流会」である。蔵元同士が門戸を開き合うという点で画期的だった同会では、酒造りのための研鑽だけでなく、蔵元同士の連携による営業活動や「食中酒としての純米燗酒」を啓蒙するイベント「燗酒楽園」開催なども行なった。さらには、一蔵だけでは入手が難しい高品質の酒米も仲間と分かち合うという共同購入制の先鞭をつけた。

酒瓶の新ラベル
貴夫社長が考案した新ラベル。醸造年度や米の品種によってカラーが異なり、酒の特性がわかりやすくなった。
徳利と盃
2021年、オリンピックイヤーを記念して作られた徳利と盃。可愛らしいデザインとキュートな色合いで人気商品に。

約16年間の活動の後、より業界内の純米酒比率を高めることを目指した小川原さんは、2006年に交流会を脱会。同年新たに結成されたのが「全量純米蔵を目指す会」である。「純米酒を熟成させ、さらにそれをお燗酒にすることで日本酒は国際的な食中酒になりうる」。その思いで純米酒の熟成に注力していた小川原さんは、会員蔵にも熟成の必要性を説いた。しかし、熟成は単に歳月の経過のみでは成らない。燗酒も単に加温することのみではない。双方に耐えうる強さを持つ純米酒を醸すことが、まずは基本だった。とはいえ、良質の酒米を買うこと、蔵内で酒を寝かせることの負担は、誰よりも自身が知っている。その経済的な問題を和らげる一策として、同会ではクラウドファンディングを実施。飲み手が先に酒代を投資することで、熟成期間中の蔵を支えるというシステムを業界に導入した。

現在の小川原一家
現在の小川原一家。後列左から貴夫社長、妻(センムの長女)佳子さん、センムの妻・美和子さん、前列は孫の啓太くんと渚沙(なぎさ)ちゃん。
小川原美和子さん
小川原美和子さん。この笑顔がセンムを長い歳月支えてきた。

他蔵のために東奔西走していた小川原さんには、蔵元同士が連携することによって業界の衰退を止めたい、日本酒の可能性を広げたいという強い思いがあった。「これからの人たちはいいよ。みんなでやっていけるからな。昔の俺みたいな(孤独な)思いはしなくて済むよ」、さまざまな蔵元同士を繋いだ小川原さんは、晩年、晴れやかな顔でそう呟いている。
農業、醸造、流通。それぞれの現場で小川原さんと関わり、共に歩んできた方々は各地におられ、現在も受け継いだイズムを活かして活躍中だ。連載第3回以降はその方々を訪ねて、在りし日の小川原さんからの提言、忘れがたい交流などについてのお話をうかがい、お伝えしていきたい。



写真を持つ人
センム最晩年の夫妻の写真。最後の一年は、家でも病院でも常に二人は一緒だった。

文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子

藤田 千恵子

藤田 千恵子 (ライター)

ふじた・ちえこ 群馬県生まれ。日本酒、発酵食品・調味料、着物の世界を取材執筆するライター。dancyu日本酒特集にも寄稿多数。1980年代中盤に日本酒の業界紙でアルバイトしていたことがきっかけで神亀酒造・小川原良征氏と出会い、以後三十余年の親交を続ける。小川原氏の最晩年には、氏からの依頼で病床に通い、純米酒造りへの思い、提言を聞き取り記録した。