世界の○○~記憶に残る異国の一皿~
超弩級の発酵料理「ホンオ・フェ」|世界の韓国料理⑥

超弩級の発酵料理「ホンオ・フェ」|世界の韓国料理⑥

2022年4月号の特集テーマは「韓国日常料理」です。旅行作家の石田ゆうすけさんは、韓国の出版社の人に歓待を受けた際に、衝撃的な発酵料理に出会ったといいます。もはや兵器ともいえるその料理とは――。

口の中が爆発するような衝撃

拙著の韓国語版が出され、韓国で出版社の人たちから歓待を受けた。そのときいろいろご馳走になったのだが、悲しいかな覚えているのは「ホンオ・フェ」だけだ。それがあまりに強烈だったため、ほかのご馳走が記憶から消し飛んでしまった。

「『ホンオ』はエイ、『フェ』は生、つまりエイの刺身のことです」と日本語が流暢な女性編集者が説明してくれた。心なしかみんな笑いをこらえるような顔をしている。一人が噴き出すように笑いながら「これは世界3大臭い食べ物の一つなんです」と打ち明けた。どうやら単なる刺身ではなく、発酵させているらしい。
「口に入れたまま深呼吸すると10人中8人は気絶し、残りの2人は死ぬ、と言われています」

後日、小泉武夫先生の文庫本に解説を書く機会を頂き、その際『不味い!』という先生の既刊本を読んだのだが、そこにホンオ・フェのことが詳しく書かれており、韓国の本からの引用という形で次のような文章が紹介されていた。
「口に入れて噛んだとたん、アンモニア臭は鼻の奥を秒速で通り抜け、脳天に達する。この時、深呼吸をすれば100人中98人は気絶寸前となり、2人は死亡寸前となる」

出版社の人たちの言ったことは多少誇張されていたが、出典は同じかもしれない。とにかく韓国でもネタ的に扱われているようなのだ。
大きな甕にエイの身を入れ、重石をしておくと10日ほどで完成するらしい。エイの体内に多く含まれる尿素が微生物によって分解され、アンモニアが発生するんだそうだ。

「こうやって食べるんです」と女性編集者がホンオ・フェを一切れつまんで、キムチとゆで豚でサンドし、口に入れた。平然と咀嚼している。と思ったら、急に手で口元を抑え、「うぅ」と唸りながら目をつぶって眉をしかめた。僕は唖然とした。地元の人間がそんなリアクションをしてもいいのか?

ほかの4人も次々に箸をつけていったが、口に入れた数秒後には全員が顔をしかめて口を抑え、涙まで浮かべる女性もいた。
聞けば、ホンオ・フェは韓国南部の海沿い、木浦周辺の伝統料理で、ソウルに住んでいる彼らは全員、今日が初体験らしい。なんでそんなことを僕との会席でするんだ?と思ってしまったが、ホンオ・フェは高級食材であり、産地では冠婚葬祭で出されるものなんだそうで、あながちいたずら心だけで頼んだものではないらしい。

涙まで浮かべている女性を見て正直引いてしまったのだが、ここで食べないわけにはいかなかったし、何より経験に勝る宝はない。ということで、大量のキムチとゆで豚でホンオ・フェをはさみ、えいやっと口に放り込んだ。……キムチの味しかしない。意外と大丈夫かも。そう思いつつ噛んでいくと、遠くの方でアンモニア臭がかすかに浮かび、次いでコリッと軟骨の歯触りを感じた。と思ったら、マグマの噴出のような猛烈な力が口内から外に向かって働き、いかん、と口を固く閉じたのだが、押し出す力があまりにも強いために、口吻がゴムのようにみょーんと前方にのび、挙句、ブハッと爆発、といったギャグ漫画のようなイメージが頭に広がった。味わうも何も、口内に押しとどめることすら困難なんて食べ物の体を成していないではないか。
吐き出すまいと僕も慌てて手で口を抑えた。すると熱を帯びた強烈なアンモニア臭が鼻に抜け、涙がこぼれた。目を刺すような刺激だ。このニオイは……そう、昔の汲み取り式の公衆便所だ。これは本当に食べ物なのか?

とにかくニオイに我慢できず、一刻も早く嚥下しなければ、と思うのだが、身にはびっしりと軟骨が入っていて簡単に呑み込めなかった。仕方なく歯を立てて噛む。噛むほどに痛烈なアンモニア臭が広がっていく。ダメだ。僕は鍋に入れる前の冷たい豆腐を口に放り込み、口の中をごちゃまぜにしてマッコリで流し込んだ。
「ひゃあ、旨いですねー!」
……とは、さすがに言えなかった。

怪著『不味い!』からまた紐解くと、小泉先生もこのホンオ・フェのパワーには仰天し、「気を確かにしてまた噛み続けると、今度は目から涙がポロポロと出てくる始末であった」そうな。そのとき涙を流しながら、ペーハー試験紙を鼻の穴に持っていき、鼻息を吹きかけたら、アンモニアのアルカリ性を示す青色が、青を通り越して黒に近い青紫になったんだとか。
発酵の権威、小泉先生をして「百戦錬磨の俺でも、こういう催涙性を持つ食べものは初めて」だったそうで、限りなく不味に近い味であり、「おそらくこれを美味とする日本人は皆無であろう」とまで言わしめているのである。いわんや、日本のクサヤごときで顔をしかめているヒヨッコの僕なんかが太刀打ちできる相手ではなかったのだった。

文・写真:石田ゆうすけ

石田 ゆうすけ

石田 ゆうすけ (旅行作家&エッセイスト)

赤ちゃんパンダが2年に一度生まれている南紀白浜出身。羊肉とワインと鰯とあんみつと麺全般が好き。著書の自転車世界一周紀行『行かずに死ねるか!』(幻冬舎文庫)は国内外で25万部超え。ほかに世界の食べ物エッセイ『洗面器でヤギごはん』(幻冬舎文庫)など。