2022年4月号の特集テーマは「韓国日常料理」です。旅行作家の石田ゆうすけさんは、自著のファンになった韓国人の青年に会いました。曰く彼の母のキムチは韓国一だそう。果たしてその味とは――。
「僕の母のキムチは韓国一旨いです」
とナンくんが言う。韓国人の留学生だ。日本語を流ちょうに話す。1年留学しただけでこんなに話せるようになるのか。
彼はたまたま僕の郷里、和歌山県の白浜町に留学していた。そのときたまたま拙著『行かずに死ねるか!』を読んだらしい。1年の留学で日本語の本を読めるようになるというのもすごい。いや、そこに感心してしまうほうが低次元なのか。
それはともかく、自転車世界一周の旅を綴った同著を読んで、ナンくんは自転車で日韓縦断の旅をやることに決めたそうだ。
出発前、彼は僕のブログを通じて、自己紹介にくわえて旅に出ることになったその経緯と謝辞をメールで送ってきた。僕は返事を返し、東京に来たら連絡して、と伝えた。
それから数ヶ月後、真っ黒に日焼けした彼と初めて会い、東京滞在中、僕の部屋に泊めてあげた。『行かずに死ねるか!』に出てくる旅仲間のTやJを呼んで韓国料理店にも行った。本を読み込んでいたナンくんはTやJとの対面を芸能人にでも会ったように喜んでいた(単なる旅仲間なのだが……)。そのときジンロを飲みながら彼が言ったのが冒頭の言葉だった。
「母のキムチは韓国一旨いです」
ということで、ナンくんが旅を終えて実家にゴールしたあと、僕はTやJと一緒に韓国に飛び、彼の家を訪ねた。ソウルの中心部からそう遠くない高層マンションに三世代が住んでいた。
家族の方たちは旧友に向けるような笑顔で僕たちを迎え、手の込んだ晩餐でもてなしてくれた。韓国を旅したときに感じた“情の厚い国”という印象そのままの歓迎っぷりで、なかばノリでやってきたことに恐縮してしまった。
メインは豚の三枚肉を焼いたサムギョプサルだった。キムチと相性がいいのだ。
問題のキムチだが、想像とは違い、ずいぶんと赤みが薄く、辛味が少なかった。その代わりに味がしっかりついていて酸味がやけに強い。くわえて、もう少し発酵が進むと臭みに変わりそうな絶妙な塩梅の芳香があった。白菜の肉厚のところが特に旨い。軟らかくて、噛むと旨味の詰まった汁気がじゅっと染み出てくる。噛むほどに発酵食品特有のふくよかさと炭酸のようなシュワシュワとした刺激のある酸味が口内に広がっていった。
そのクセの強さといい、味の深みといい、市販のキムチとは全然違う。あえてたとえるなら、市販のキムチが鮮やかな黄色の甘い沢庵とすれば、ナンくん家のキムチは茶色くて皺だらけで酸っぱい田舎漬けの沢庵だ。これを食べていると、市販のキムチは辛さと甘味で味をごまかしているんじゃないかとさえ思えてくる。
聞けば、ナンくんの母親のキムチには化学調味料は一切使われていないらしい。すっきりして、嫌な甘味が口に残らないのはそのせいだろう。
彼らに勧められるまま、焼きたてのサムギョプサルに冷たいキムチをのせて食べてみると、濃厚な肉の旨味にシュワシュワした酸味と辛みが溶け合って思わず目をつぶり、こんな旨さがあったのかと舌を巻いた。これを食べて育ったら、確かに“母のキムチ”が韓国一になるのかもしれない。
ナンくんの家では年間40個ほどの白菜を漬けるそうだ。家には「キムチ冷蔵庫」なるものがあった。昔のアイスクリームの冷凍庫のような上蓋式のタイプで、容量はなんと97リットル。
キムチ冷蔵庫のことは聞いたことがあったが、なんとなく田舎の話だと思っていた。ソウルの高層マンションにもこんな巨大なキムチ冷蔵庫が設置され、毎年家で大量に漬けられているとは。
ナンくんによると、別に彼の家が特別なのではないという。97リットルでもまだ小さめだそうで、その倍の大きさのキムチ冷蔵庫を持つ家庭も少なくないらしい。
どうやら“韓国一のキムチ”は国中にありそうだな。
文・写真:石田ゆうすけ