2022年1月号のテーマは「新しい家中華」です。旅行作家の石田ゆうすけさんは、中国を旅している中、とある小さな村の銭湯に泊まることとなりました。そこでの一宿一飯の思い出とは――。
中国北部の田舎を自転車で旅している。ときどき万里の長城が現れた。観光地にはなっておらず、土くれのような遺構が山肌を龍のように這っている。
10月に入り気温が下がってきた。温度計を見ると5℃だ。緯度が高いから日もえらく短い。
ある日、人気のない山道で真っ暗になった。小心者の僕は嫌な汗をかいている。山賊が出たらお手上げだ。早くここから抜け出したかったが、一点の光もない完全な闇で、月明りすらなかった。なのに道路は穴だらけだ。自転車のライトでは弱すぎて、のろのろとしか走れなかった。
暗くなってから約2時間後、ようやく前方に明かりが見え、安堵のため息をついた。
小さな村だった。
「澡塘」という看板が現れた。銭湯だ。こんな小さな村で珍しい。
もしかして、とドアを開けると、小柄なおじさんが現れた。
「宿はやっていますか?」と聞いてみると、おじさんは「メイヨウ(没有)」と言う。「ない」という単語だ。宿として使っている部屋はない――。そりゃそうだよな。中国ではホテルの看板に「酒店」や「飯店」等、一見そうとは思えない文字が使われているから、もしや、と期待したんだけど。
質問を変え、「この村に宿はありますか?」と聞くと、またしても「メイヨウ」と言う。仕方がない。どこかでテントを張ろう。そう思ったところで、おじさんが自宅を兼ねていると思しき銭湯を指して、ウチに泊まるかい?と言った。えっ?と相手を見返すと、彼はニヤリと笑って「ファン、ヨウ(部屋はある)、ベイル、ヨウ(布団もある)」とリズミカルに言い、含みのある目になって、「ジュスイ、ヨウ(風呂もある)」と続けた。思わずプッと笑う。おもしろかった?と彼はニタニタ口角を上げ、僕の目を覗き込んでくる。中国人は常に人を笑わそうとする、というのは僕の印象だけれど、このおじさんもやっぱりそのまんまだ。
勧められるがまま銭湯の浴室に入ると、湯船はなくシャワーだけだった。それでもありがたい。石炭の粉塵を一日中浴びながら走ってきたのだ。このあたりは炭鉱地帯で、石炭を山積みしたトラックが走り回り、路上の粉塵を巻き上げている。聞けば、ここも坑夫の村らしい。風呂屋があるわけだ。
村に一軒だけあった食堂で晩飯を食べ、さっきの家に戻ると、銭湯の営業は終わっていた。おじさんに言われるまま自転車を倉庫に入れる。
居間に通された。浴室の脇の小さな部屋だ。4畳半ぐらいか。居住空間はここだけらしい。なんと家族全員でここに寝ているのだという。子供が3人いて、家族5人。寝るにはぎりぎりだろう。銭湯で生計を立てていくのは中国でも大変なのか。
両親も子供も僕の旅を面白がってくれた。話を聞きながら表情を豊かに変え、よく笑う。
夜が更けると、母親と2人の娘が立ち上がり、布団を持って部屋を出ていこうとした。
「えっ、どこ行くの?」
「私らは女風呂の脱衣所で寝るから、あんたはここで主人と息子と3人で寝るんだよ」
とんでもない、僕が脱衣所で寝るよ、そう主張したのだが、父も母も「いいからいいから」と笑う。
結局、居間に父と息子と3人で寝た。
2人ともすぐに寝息を立て始めた。不思議な気分だった。山村の銭湯で、さっき会ったばかりの中国人親子と川の字になっているのだ。彼らの寝息が闇にくっきりと浮かんでいた。自分はここで一体何をしているんだろう......。感謝の思いと、何か温かいものが胸の奥から湧き上がってきた。
「〇△×□●△!」
突然、親父が絶叫した。何のギャグだ?と思ったら、どうやら寝言らしい。こんなに大きな声で?
信じられない思いで薄闇の中、親父を見ると、今度は暴れるように寝返りを打ち、足が蹴り出され、僕の尻にめり込んだ。思わずグウッと声が出る。
親父に背を向け、できるだけ離れようとしたがすぐ壁に当たった。そんな僕の尻を親父は一晩中、ほんと見事に一晩じゅう蹴り続け、ときどき思い出したように大声を上げた。普段ここでどうやって5人で寝てるんだ?
うとうとしては蹴りが入り、耳元で叫ばれ、僕はまったく寝た気がせずに朝を迎えた。やはり脱衣所で寝るべきだったんだ、とぐったりした思いで起きると、母親が部屋に入ってきて、よく眠れた?と聞いてくる。「寝れるか!」と吠える代わりに「ハオラ(ばっちり寝たよ)!」とやけくそで答えると、母はよかったよかったと笑い、居間の横の厨房で朝飯をつくり始めた。
小麦粉の生地をのばしてフライパンでパンを焼き、さらに乾麺をゆで、別の鍋でスープをつくり、チャッチャと湯を切った麺をスープに入れて出来上がり。速い速い。
きしめんよりさらに幅の広い"ひもかわ"のような麺だった。中国は麺の種類が豊富なのは言わずもがな、朝食そのものが多彩だ。パンや麺のほか、様々な粥に、中華まん、おぼろ豆腐、豆乳、揚げパン、いろんな具が入った焼き餅等々、朝からたくさんの選択肢があって、町じゅうで湯気が上がり、見ていて胸が膨らむ思いがする。
昨晩は銭湯の熱で部屋も温かったが、朝は相当冷えた。その中で家族と輪になり、焼いたパンをかじり、幅広の麺と薄い塩味のスープをすする。顔のまわりに白い湯気が浮かんでは消えた。ああ、中国の朝だ。田舎の素朴な親子と、平和な朝を迎えている......。目が合うと、子供たちははにかんだように笑った。まったく散々な夜だったな、と僕も口元をゆるめている。
文・写真:石田ゆうすけ