東京から200km以上離れた静岡県島田市で江戸前蕎麦の伝統を守り続ける「藪蕎麦宮本」。その真髄を示すのが辛口のざる汁だ。深くまろやかな旨味はいかにして生まれるのだろうか。
蕎麦の旨さはつゆあってこそ。「藪蕎麦宮本」を訪ねると、改めてそう気づかされる。
蕎麦猪口に注がれたつゆはどっしりとした濃口。といってもしょっぱいわけではなく、口に含むと深い旨味が球体のようにまろやかに広がる。これをアテに一献傾けたくなる旨さだ。
このつゆで“ざるそば”を手繰れば、繊細な蕎麦の風味に力強さが加わり、甘味も一層、鮮明になる。香ばしい“手挽きそば”とも対等に渡り合い、重層的で奥行きのある味わいが生み出される。
「ざる汁は蕎麦の味を引き立てる女房役。すごく大事だよ」
主人の宮本晨一郎さんは朴訥とした語り口でそう言った後、「蕎麦は汁」と繰り返した。
念のため言うと、「ざる汁」は蕎麦つゆのこと。「もり汁」「辛汁」という呼び方もあり、いずれも江戸前蕎麦独特の言い回しだ。
つゆがどれだけ重要かを語るために、宮本さんは鮨を例に挙げた。どんなに上質の魚を仕入れても、酢飯が旨くなければ握りは台無しになる。この酢飯にあたるのが蕎麦でいえばつゆ。つまり、つゆは蕎麦そのものの味、ひいては店の良し悪しまで左右するという。
「それに蕎麦って新蕎麦のときと日が経ったときでは味が変わるじゃん。だから、土台になるざる汁がしっかりしてないとならんでよ」
最近は蕎麦を塩で食べさせる店も多いが、宮本さんの蕎麦はつゆありき。ざる汁をつけて初めて完成となるため、お客に塩を所望されても断っているそうだ。
宮本さんが考える旨いざる汁の要諦は「かえしとだしを合わせたときにすべてが丸く一体化していること」。これが一番重要だという。
かえしとはつゆの元になる合わせ調味料だ。これに使う醤油や味醂の味が尖っていたり、だしの風味が立っていたりすると、蕎麦の味を引き立てるどころか逆に殺してしまう。特に誤解が多いのはだしの風味だ。「だしが香るつゆ」と聞くといかにも旨そうだが、宮本さんに言わせれば蕎麦の味を邪魔するだけ。蕎麦湯を注いだときに初めてだしの風味が開く汁こそ、江戸前の本流なのである。
では、江戸前のざる汁はどのように仕立てるのだろうか。
まず、つくるのは醤油と砂糖をメインに味醂を少し加えた“生がえし”。生がえしとは火を入れずにそのまま熟成させる方法で、火を入れたものは“本がえし”と呼び分けられている。
まろやかな味わいからして、醤油も砂糖も吟味を重ねた品を使っているのかと思ったら、意外な答えが返ってきた。
「味醂は岐阜のいいものを使っているけど、醤油は大手メーカーでつくってるものだし、砂糖も普通の上白糖。修業時代から同じ。使い慣れてるのが一番だよ」
材料をおごらずとも、あれだけ旨いつゆをつくれるとは驚きである。もっとも、それには技術と経験が必要になるのだろう。
かえしについては土に埋めた甕で熟成させるのが昔ながらのやり方として伝わっている。宮本さんもかつてはそうしていたそうだが、
「この温暖化でしょ。今は冷蔵庫でゆっくり寝かせてるよ。暑過ぎてかえしが早く起きたら困るだもん(笑)」
一方、だしには2種類の鰹節を使う。1つはカビ付けした本枯れの焼き節、もう1つは脂の少ない亀節だ。どちらも厚削りを選び、アクを掬いながら1時間ほど煮詰めていく。このとき鰹節を絶えず回転させると雑味が出にくく、旨味だけを引き取れるという。
「煮詰め加減は1斗の水が半分になるくらい。だしの色は茶褐色になって、飲めないないぐらいにものすごく渋いよ。そのぐらいに濃く煮詰めないとかえしの辛さに負けちゃうから」
そんな渋~いだしとゆっくり寝かせたかえしを合わせたら、今度は湯煎すること1時間。湯から伝わる柔らかい熱にじっくり当てるとかえしとだしが丸く一体化して、渋みはコクに変わっていく。
この湯煎には「土たんぽ」と呼ばれる素焼きの甕が活躍する。蕎麦釜の一角にはたんぽがセットできる穴があり、ここで湯煎するのが昔ながらの汁の取り方なのだとか。
こうした汁の取り方は「池の端藪蕎麦」での修業時代に叩き込まれたという。「藪」のつゆといえば、江戸前の蕎麦屋のなかでも辛口で有名だ。「池の端藪蕎麦」でも伝統の辛い汁が継承されていたという。
ここで言う辛口とはかえしの割合を多くした、濃度の高いつゆを意味している。「蕎麦は三分」という言葉があるように、蕎麦の裾にだけつゆをつけてずずっと手繰るのが江戸前の粋な食べ方とされるが、これが広まったのはそもそもつゆが辛かったからだと言われている。
故郷の静岡県島田市で自分の店を開くとき、宮本さんはこの江戸前の汁で勝負をしようと考えていた。ところが、修業先の主人にこう釘を刺されたそうだ。
「地方では薄くて甘い汁が好まれる。江戸前の辛口は通用しないよ」
そこで、藪の汁をベースにしつつ、かえしの濃さを変え、湯煎する時間を長くするなど工夫を凝らして完成させたのが現在のざる汁だ。
そのつゆは東京の蕎麦屋を見渡しても抜きん出るほど申し分ない。しかし、修業先で学んだ製法そのままの江戸前らしい辛い汁への思いも捨てきれずにいた。
心の内に秘めたその思いを形にしたのは、今の店を開いてから30年近く経った2009年夏のこと。長女のひろみさんが「もっと辛い汁はできる?」と聞いたのがきっかけだった。仕入れる玄蕎麦の品質が上がり、蕎麦の甘味が強くなっている。ざる汁をもっと辛くしてもいいのではないか。ひろみさんはそう考えて父に伝えたのである。
こうして出来上がった江戸前伝統の超辛口のざる汁は「江戸つゆ」と命名された。一段と深い漆黒を湛えたそのつゆは、まろやかな旨味がありながらきりりとシャープな味わいが特徴だ。キレのある江戸つゆで手繰れば、蕎麦がより一層、粋な印象になるから面白い。
もっとも、従来のざる汁にもファンは多く、江戸つゆはオプションとして選べるようにしている。
「一度味わうと『こっちがいい』と江戸つゆを選ぶお客さんは多いですね。定番のつゆもおいしいからと、その日の気分で選ぶ方もいたり。私がお客さんでも迷います(笑)」
とひろみさん。宮本さんにとってこの江戸つゆの投入は、故郷に開いた江戸前蕎麦屋の集大成ともいえるのだろう。
どちらのつゆも蕎麦にとってはまさしく「いい女房」であることは間違いない。仕立てのよさを実感するのは、蕎麦湯を注いだときだ。封じ込められていただしの香りがふわっと開き、極上の吸い物を味わっているかのよう。飲み干したあとの満足感もひとしおだ。
ちなみに、蕎麦湯については蕎麦粉を溶いてポタージュ状にする店も増えているが、この店では往時のまま釜湯をそのまま湯桶に注いでいる。
「早い時間はさらっとして、最後のほうはちょっと白く濁ってとろみもつく。そういう釜の動きも感じてくれたら嬉しいよね」
という宮本さんの言葉に、ひろみさんも頷いていう。
「最近は蕎麦湯を飲まずに帰るお客さんもいるんです。自分の好きなように味を調節できて、これこそ蕎麦屋の醍醐味だと思うのに。もったいないですよね」
一方、温かい蕎麦に使うかけ汁(甘汁)も江戸前の伝統が踏襲されている。琥珀色の澄んだ汁はふくよかな旨味があり、ほんのり甘くて後味にも品がある。最後の一滴まで飲み干さずにいられない。
このかけ汁は、かえしもだしも別に誂えられている。特にざる汁と異なるのはだしで、こちらにはコクのある鯖節の厚削りを使用。煮出す時間も短く、最後に薄削りの鰹節をひと掴み加えて鯖の臭みを抑えつつ香り高く仕上げる。
「かけ汁の場合、つくり立ての風味が命。ざる汁のように寝かせず、毎朝、だしを引いてつくるから旨いよね」
もちろん、冷たいざる汁と温かいかけ汁のどちらも、具材を加えることによってさらに多彩な味わいを生み出すことができる。「藪蕎麦宮本」の蕎麦にはどのようなバリエーションがあるのか。品書きをめくってみることにしよう。
文:上島寿子 写真:岡本寿