大小多くの酒場が立ち並ぶ、神田駅周辺。この地に店を構えて30年を迎えるおでん屋「なか川」にも、ようやく酒場の日常が戻ってきたように見える──かつてない苦境に立たされる酒場の人たちは、どのような思いでこの日々を乗り越えてきたのか。さまざまな店への取材を通して、「酒場の良さってなんだろう?」とじっくり考えていくルポルタージュ連載。第十六回は、おでん鍋に立ち上る湯気を眺めつつ、酒場へ足を運びたくなる理由をしみじみと考えてみました。
営業時間短縮要請が解除され、従来どおりの営業ができるようになって、はや、ひと月近くになろうとしています。多くの酒場には、お客さんの姿が戻りました。しかし一方では、客足の戻りが鈍いとか、夜遅くまで飲む人が激減したといった声が聞かれているのも事実です。
家飲みの習慣が定着したという見方もありますが、そもそも、オフィスに出勤しない勤務形態で働く人が増えているから、仕事終わりに誘い合わせることは逆に減っている。街中を見ても、夜遅くになると、以前に比べて人の数が少ないことが実感される。
そんな中で、酒場は、今年になってやっと訪れた平常営業のチャンスに、どんなことを考えるのか。酒を出せない長い夏を経験した酒場の今をレポートすることを通じて、いつもそこにあってほしい酒場、いつまでも残したいと思える酒場とは何かを考えてみたいと思います。
シリーズ十六回目は、神田のJR高架下にあるおでん屋「なか川」を訪ねます。仕事の合間に、お話を聞かせてくれたのは、店主の中川尚(たかし)さんです。
渋い暖簾をくぐって店へ入ると、L字のカウンターがあり、その中から、中川さんの柔和な笑顔が迎えてくれる。
「はい、いらっしゃい」
L字の短いほうには詰めれば4席。角におでんの鍋を設え、その横にはコンロを据えて鍋を置き、酒の燗もここでつける。徳利を一本一本、鍋の湯で熱し、途中、加減を見ながら、ほどよいところで客に供してくれる。
L字の長いほうには、6人くらい座れるだろうか。客の前には、惣菜の皿がずらりと並ぶ。
たけのこ煮、牡蠣の揚げもの、煮た大豆、干し穴子の焼き物、茹で落花生、すみいかのゲソ、黒豆、きんぴらごぼう、茄子、万願寺唐辛子、いんげんの揚げ、いわし丸干し、ポテトサラダ、チャーシュー、ワタリガニ。
おつまみに、それぞれ少しずつ盛っていただくにしても、これだけの種類の中からぜいたくに選べる。酒肴は他に、刺身やお手製の魚の干しもの、この季節、土瓶蒸しも用意する。時短営業への要請が解除されたばかりのこの時期に、ひとりでこれだけのおつまみを揃えた。
そして、店のメインは、おでんだ。
「えび巻、ひらたけ、ねぎとまぐろ、たこ、ゆり根、よもぎ麩、菊菜、わかめ、玉子、バクダン、里芋、玉ねぎ、えび芋、大根、がんもどき、しらたき、こんにゃく、白子、銀杏、こんな感じかな」
太い箸で鍋の中身をつつきながら解説してくれる。えび巻、ロールキャベツ、さつま揚げ、ふくろ、つみれなどは、中川さんの手づくり。
「僕は車海老が好きでね。でも、車海老は高いでしょう。だから、あまりピンピンしてないヤツを買う。他の海老と比べたら、それでもおいしいから、死にかけを買ってくるの(笑)」
楽しい話の小ネタも挟んでくれる。仕入れは、魚河岸へ通う。店へ戻って仕込みを終えると、少しの時間を使ってスポーツセンターで軽く泳ぎ、夕方5時から店を開ける。
魚釣り、山歩きが好きで、合間にうまい蕎麦屋を探して立ち寄ったりもする。絵が上手で、毎年、寒中見舞いに素敵な版画のハガキを配る。ゴルフもうまい。中川さんは、なんでも、できる人なのだ。
「長く、店を休んでいたでしょう。だから、仕事もいろいろ、忘れている。いや、やる気がなくなっているのかもしれない(笑)」
訪ねたのは、時間制限なしで営業ができるようになって間もない頃。飲み手の側も、お店の側も、まだ、昔の勘が取り戻せないような、そんな時期だった。もどかしさを、照れ笑いで隠しながら、話を続けた。
「ずっと、要請のとおりにしていましたけど、今年の5月でしたっけ、酒が出せないようになってからは休んでました。7月ごろ、少しだけ開けたけど、その後また、酒が出せなくなって。こんなことは、初めてですよ」
店はこの11月で、開店から30年を迎えた。中川さんは、70代後半。体力に十分な自信のある時期ならいざ知らず、このタイミングで、店を休まざるを得ないのは、気力にも影響するのではないだろうか。中川さんがひとりでてきぱきと仕事をこなす姿を眺めながら飲み喰いするのが好きな常連さんの多くが、そんなことを心配していることだろう。しかし、当の中川さんは、いろいろ仕事を忘れてると照れながらも、楽し気に働くのです。惣菜の牡蠣がとてもうまいので、これ、どうやって作るんですか、と不躾なことを訊いても、嫌な顔ひとつせず、むしろ笑顔で、教えてくれる。
「これね。最初湯掻いて、水気を切って、それから片栗粉をつけて揚げるの。味付けはね、醤油や味醂を煮詰めて、それにさっと絡めてね」
小ぶりのいわしは、丸干しと、刺身にした。
「愛知の小さいいわしですが、僕はこれが好きでね。ここの二階で干すの。風干しです」
二階は小さな座敷で、ちょうどこの晩は、若いビジネスマンたちが久しぶりの飲み会を楽しんでいた。漏れ聞こえる笑い声を耳にして、「上は、今日は楽しそうだね。みんな、お酒飲む機会がなかったからね。昔の生活が戻ってきたのかな」と、中川さんは目を細める。
「休んでいる間は、家にいて、大谷選手の試合を見たり、撮りためていたゴルフの録画を見たりしてましたよ。あとは、朝夕の犬の散歩ですね。家内に懐いていたんだけど、今は、僕が面倒みないと」
2年前に奥様を看取った後は、犬のお世話も中川さんの仕事になった。休業中とはいえ、ご自宅の家事全般があり、店関連の各種の支払いもある。実は、時間はなかなか取れないのだった。そして、10月1日。酒の提供ができるようになって、中川さんは店を開けた。
「最初、意外とヒマだったんですよ。どうってことなかった。でも、今日あたりは、上にもお客さんが入ったでしょう。身体がなかなかついていかない。いろいろミスしたり、バタバタしたり、どうやっていいのかわからない(笑)」
お手製の惣菜をつまみながらビールを飲み、刺身と丸干しを頼んでからは、日本酒に切り替える。酒は灘の「白鷹」。この本醸造を燗でもらう。夏場でもおいしい、ほどのいい辛さの燗酒は、中川さんのつくる酒肴によく合う。
徳利も2本目、3本目くらいになったら、さあ、いよいよおでんの時間。白子、菊菜、えび巻、銀杏など、おでん鍋からすくってもらう。汁の具合はあっさり、すっきり。上品で、ゴテゴテとした濃いタイプのものとは違う。そうでなければ、ふわりと浮かべた白子が引き立つとも思えない。
自分の舌で味わって、これはうまいなと本心から思えるものを選んで仕入れ、調理して出す。それもリーズナブルな値段で出す。そういうことに、楽しみを見出している。お話を聞くたびに、そう思わせる。うまい酒肴で酒を飲むというただそれだけのことで、なんとも幸せな気分になれる。「なか川」に行きたくなる動機がこれだ。
休んでいる間、中川さんは、この先の過ごし方をどんなふうに考えていたのか。年齢のこともある。引退を考えたりはしなかったのか。この店を愛するひとりとして、少し酔った勢いで、そんなことも訊いてみました。
「サラリーマンじゃないから退職金もないし、お金は店に注ぎ込んできましたからね。まだ稼がないといけない。それに、たとえば、すごく年をとっても元気で頑張っている豆腐屋のご主人とか、いろんな人も見てきたから、仕事はしていたほうがいいと思う。ただ、ちょっと、多すぎるんだよね。こんなに、いろいろやると、今日みたいに二階にも入ると、本当に忙しくなっちゃう(笑)」
おでんダネに、上等な刺身の数々、汁物、ご飯もの、焼き物、煮物。ひとりでやるには品数は確かに多い。多すぎる。それを自嘲気味に笑うのだが、一方で、こうも言うのです。
「やる以上は、ヘンなものは出せない。いい加減にはできない。日本の多くの職人さんたちがそうしてきたように、細く長く、やりたいなと思います。ただ、本人、一生懸命やってるつもりなんだけど、追いつかないのよ(笑)。それでも、こんなときだからこそ、今までよりグレードを上げてね。みなさんにお出ししようかなと思う。それで、頑張っちゃうんだよね(笑)」
おでんの後に頼んだ、まぐろとねぎのぬたのうまさに思わず相好を崩しながら、こちらはまた、酒を追加する。同行のスタッフには、こちらの締めの名物、かけめし、を勧める。ご飯にまぐろの漬け、胡麻、わさび、刻み海苔、三つ葉をのせて、おでんのつゆをかける。お新香の小皿には削りたてのかつお節をぱらり。1分もあれば、さらさらと胃袋に収まってしまう最後の出汁茶漬け。
このうまさは、記憶に残る。きっと、離れられない人がいる。実は、中川さんはそのことをよく知っていて、その人たちのためにも、この仕事、そうそう簡単にはやめられないと思っているのかもしれない。隣り合わせた常連の方に、ふと、聞いてみたくなりました。
「この夏の、長い休みの間、中川さんのこと、心配されたんじゃないですか」
常連さんは、やはり、照れたように笑いながらおっしゃいました。
「いやあ、ちょうどいい骨休めになったんじゃないですか」
たったひと言に、また会えた喜びが込められている。お店と客の長い付き合いの中で生まれる互いへの思いやり。連帯感とも呼びたくなるような思いを、そこに感じることができる。こうして、元気に店を開けてくれたことに感謝して、また以前のように、ちゃんと足を運んできますよ。言葉にはしないけれど、静かでやさしい思いが、この店のカウンターにはあるなと思う。
いい店とはつまり、かけがえのない人だ。会えない時間があったからこそ、そんな当たり前のことに、気付けたのかもしれません。
*最新の営業時間など、詳しくは電話で確認を。
文:大竹 聡 写真:衛藤キヨコ