2021年10月号の第一特集テーマは「おいしいサラダ」です。まだ平穏だったころのミャンマーを訪れた石田さんは、そこでなんとも中毒性のある料理と出会いました。手が止まらなくなる魔力を宿したサラダとは――。
ミャンマーには食べるお茶がある。生の茶葉を蒸してから揉み、樽に入れ、重石を載せて数ヶ月から1年間発酵させる。「ラペッソー」と呼び、日常的に食べられている。これにトマトやキャベツ、揚げたそら豆、ピーナッツ、干しエビ、にんにくなどを混ぜ、油やナンプラーで和える。いわばお茶のサラダだ。「ラペットウッ」という。
僕が自転車で世界をまわっていた当時、ミャンマーはまだ軍事独裁政権下で、陸路では国境越えができず、入れなかった。
ところが近年、民主化が進み、2018年の終わりから日本人のビザが試験的に免除されることになった。それ行け、とばかり2019年にミャンマーに飛び、自転車で旅をしたのだが、その後コロナが始まり、次いでクーデターが起こったので、結果的にぎりぎりのタイミングでの旅になった。
旧首都ヤンゴンを出てしばらく走ると、干し草でできた家が道沿いに並び、馬車や牛車がカッポし、田んぼでは水牛が鋤を引いていた。100年前と変わらないような光景が広がっているのだった。
昼に田舎町の食堂に入ると、やはり英語は通じなかった。
地元の人が食べているものを指して注文しようにも、店内にいる学生たちは全員が食事を終えている。
立ち尽くしていると、学生のひとりが声をかけてきた。少しだが英語を話せるようだ。彼に誘われて厨房に入ると、店のおばさんが鍋の中の料理を見せてくれた。僕は豚肉の煮込みとご飯を指差した。
学生に礼を言って席に戻ると、頼んだもの以外に野菜の炒め物やスープなど、全部で5品出てきた。こんなに頼んでいないよ、と学生のほうを見て言うと、彼は「それらはサービスでつくんです」と微笑んだ。
その中にラペットウッがあった。見た目も匂いも高菜漬けのようだ。食べてみると、高菜漬けのような葉っぱは軟らかいけれど丈夫で、噛み応えがあり、酸味やかすかな苦み渋みがある。変な味だな、と思ったものの、噛んでいると渋みの向こうに旨味が広がるようで、妙に後を引く。豆や野菜や干しエビと一緒に食べると、やがて箸がとまらなくなった。あとでその葉っぱがお茶だと聞き、唖然とした。
先日、ある雑誌でミャンマー料理店を取材したとき、メニューにこのラペットウッがあるのを知って意外な思いがした。発酵茶葉はどうしているんだろう?
そのときは別の料理が対象だったので、ラペットウッは食べなかったのだが、あとからあとから気になってきた。
別の日、新宿方面に用事があったので、四谷三丁目のミャンマー料理店「ゴールデンバガン」に電話し、ラペットウッのテイクアウトをお願いした。
店に行くと、50代と思しきミャンマー人のきれいな女性が料理を渡してくれた。上手な日本語をしゃべる。発酵茶葉はどうしているのか聞いてみた。
「ミャンマーから輸入してマス」
「えっ、今でもミャンマーから物が届くんですか?」
「タイヘン。だからすごく高くなタ。豆は友人がミャンマーから日本に来るとき買ってきてもらタ」
今の混乱した状況下でも人の出入りがあるんだ、と驚いてしまったが、やはりいろいろ難しいようで、最後に仕入れたのは3ヶ月前の6月だという。
あまり詮索するのはよくないと思い、質問をやめた。すると女性のほうから聞いてきた。
「ミャンマー料理は好きデスカ?」
「はい、一昨年ミャンマーに行って、ラペットウッが大好きになったんです」
彼女は少女のように明るく笑った。
家に帰って開けると、魚醤と発酵臭の入り混じった香りが部屋に広がった。
妻は怪訝な顔をし、ひと口食べると、「何これ?」と眉をひそめた。だが、しばらく噛んで飲み干すと、また箸がのび、口に入れ、咀嚼し、また箸がのび、というのを繰り返した。妻もやはりこの魔力にはまったようだ。実際、それは現地の味と変わらなかった。とりわけピーナッツに心を動かされた。小粒で丸くてコクがある。明らかにミャンマー産のピーナッツだ。あまりに旨いのでお土産で買って帰ってきたほどだった。
発酵茶葉はともかく、ピーナッツなら日本でも国産や中国産がいくらでも買える。でもそうせず、自国産にこだわり、動乱の国からタイヘンな思いをして取り寄せ、現地の味を正確に再現しようとしているのだ。そこにはどういった心情が働いているのだろう。
無心になったように食べ続ける妻を、僕は意外な思いで眺めていた。味や香りに非常に敏感な一方、食に関してはかなり保守的な人なのに、まさかこんなに食べるとは。
しばらくして妻は顔を上げ、「おいしい……これはおいしいわ」と心から感嘆したようにもらしたのだった。
文・写真:石田ゆうすけ