琵琶湖「鮒寿し」紀行
琵琶湖畔に佇む老舗料理宿、復活の物語

琵琶湖畔に佇む老舗料理宿、復活の物語

滋賀の琵琶湖の畔に、一日一組しか予約を受け付けない料理宿がある。天明4年(1784年)から暖簾を掲げる「魚治」が経営する「湖里庵」だ。その名物は琵琶湖で獲れたニゴロブナを創業より伝わる倉持の菌で、二冬かかえてじっくりと発酵熟成させた鮒寿しと、目の前の湖で獲れる天然の鮎、鯉、鰻などの幸。毎年、その味を求めて全国からファンが店に足を運んだ。しかし、3年前の9月4日。関西地方を襲った台風21号の被害を受け、宿は基礎を残して全壊した。この夏、その湖里庵が3年ぶりに復活した。この連載は故郷の湖を愛する食の職人と老舗料理宿の復活の物語である。

琵琶湖周航の歌

われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
滋賀の都よ いざさらば

ふと気がつけば、窓越しに広がる湖面を眺めながらいつかどこかで聞いた覚えのある歌を口ずさんでいた。
「琵琶湖周航の歌」。この歌は現在の京都大学にあたる「第三高等学校(通称・三校)」の水上部の部員が、恒例行事である琵琶湖一周の夏合宿の際に、ボートに乗りオールをこぎながら湖上で歌ったのが始まりだと言われている。滋賀に縁のある人で、この歌を知らない人はいない。旅情溢れる歌詞と郷愁漂う旋律に誘われて、いつか琵琶湖を旅したいと思っていた。

琵琶湖は京都の台所と呼ばれる食の宝庫だ。天然の鮎や鰻などの湖(うみ)の幸。古くは東海道・中山道の宿場町として栄えた「大津」「近江八幡」「彦根」「長浜」などの宿場町には、今をときめく「七本槍」「松の司」「不老泉」など銘酒の酒蔵がずらりと立ち並ぶ。旨い肴に旨い酒。かつて琵琶湖には蒸気船が行き来し、周辺に暮らす人々の貴重な移動手段となっていた。鉄道の発達で湖上交通としての蒸気船は姿を消したが、今は湖に沿ってぐるりと鉄道で一周することはできる。

今年の夏の初め、一通のEメールが舞い込んだ。琵琶湖の西北に位置し、湖上交通の要衝として栄えた海津という港町で、天明4年(1784年頃)から名物の鮒寿しを作り続けている「魚治」の七代当主・左嵜謙祐さんからだった。それはこんな一文から始まっていた。

「おかげさまで新しい湖里庵が次の一歩を踏み出し、再開することができました」

「湖里庵」とは「魚治」が営む一日一組の料理宿。その屋号は宿の常連だった小説家・遠藤周作が命名。自らの雅号「狐狸庵」にちなんだ。遠藤氏は琵琶湖湖畔に佇み、季節の湖の幸をふんだんに用いた「鮒寿し懐石」をこよなく愛し、税前、何度も足を運んだそうだ。

本

そんな「湖里庵」に災難が降りかかったのは3年前の9月4日。関西地方に記録的な被害をもたらした台風21号の暴風雨で宿そのものが基礎を残して全壊したのだった。街道を挟んではす向かいにあった「魚治」の店舗と鮒寿しの蔵は間一髪難を逃れた。左嵜さんら家族が再建に向けて奮闘している噂は聞いていた。手紙の末尾はこう締めくくられていた。

「変わらない景色を預かりながら、いままでとこれからの間にあった今回の経験の上に立ち、次の一歩を重ね歩みに変えていくことを、いまは見つからない言葉の答えにできればとおもいます」

「変わらない景色」とは宿から一望できる琵琶湖のことだ。
それから二ヶ月後、私は京都駅から滋賀の都、大津を経て「湖西線」の車中にいた。平線の彼方には入道雲。その手前にはひつじ雲。夏と秋とがせめぎあっている。京都から小一時間。カタカナで書かれた「マキノ」という駅で下車する。迎えの車に乗って数分走ると、旧街道らしい造り酒屋や醤油蔵が残る地区に入った。そして「魚治」の看板が見えた。

外観

「ようこそ、おいでくださりました」

謙祐さん、奥様で女将の奈緒子さんに出迎えられる。この日もうだるような残暑ではあったが、京都のそれとは明らかに違う。路地をかけるそよ風は実に爽快だ。謙祐さんがこんなことを教えてくれた。

店主夫妻

「海津という地名は、日本海に近い港という意味なんです。ここから若狭湾に面した敦賀まで峠を超えること七里半(29km)。ですから気候は日本海の都市に近い。冬になると膝くらいまで雪に覆われます。だからこそ、鮒寿しのような保存食が生まれたんやと思っています」

この海津は、大津との間を行き来する湖上交通の要衝でありながら、同時に畿内と北陸とを結ぶ陸上交通の要衝でもあった。敦賀に揚がった魚を京都へと輸送する、有名な「鯖街道」にも数えられる。はるばる遠くへ来たものだ。

まずはお部屋へということで、初々しい檜の香る湖里庵へと足を踏み入れる。一階が食事処、二階が宿。一日一組しかとらない流儀は変わらない。そして、お部屋へ。畳敷きの居間に足を踏み入れた途端、言葉を失ってしまった。軒と柱以外、遮るものが何もない一枚張りの窓ガラスの向こうに気宇壮大な琵琶湖が広がっていたのだ。謙祐さんが「変わらない景色を預かりながら」と書いた風景だ。

店内

「湖に向かって朽ち果てた杭が並んでいますが、かつての桟橋の跡です。湖面が揺れているのは水が湧いているからです。波打ち際でキラキラと腹を見せているのは鮎ですね」

琵琶湖

湖面は一時として同じ表情はなく、刻々と変わりゆく。時に荒々しく、時に穏やかに。台風被害の翌日もまた、琵琶湖はこの穏やかで美しい表情だったという。この土地に根を張って生きてきた謙祐さんは、幼い頃に、同じ町に住む母型の祖父がポツリと言った一言が忘れられないという。

「自然を片方から見たらあかん。清も濁も受け入れるのがそこに住むということや」

あっという間に時間が流れる。
湖を眺めながら、木曽の檜で誂えたそれは見事な湯船に浸かるのも湖里庵の楽しみだ。この湯船は台風被害を免れた。そして、太陽が西の空に傾く午後5時。いよいよお目当ての夕餉が始まった――。

文:中原一歩 写真:海老原俊之

中原 一歩

中原 一歩 (ノンフィクション作家)

1977年、佐賀生まれ。地方の鮨屋をめぐる旅鮨がライフワーク。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)、『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』(文藝春秋)など。現在、追いかけているテーマは「鮪」。鮪漁業のメッカ“津軽海峡”で漁船に乗って取材を続けている。豊洲市場には毎週のように通う。いつか遠洋漁業の鮪船に乗り、大西洋に繰り出すことが夢。