2021年8月号の特集テーマは「スパイスとカレー。」です。旅行作家の石田ゆうすけさんは、個人的に一番カレーが美味しかった国はマレーシアだといいます。その魅惑の味わいとは――。
今回はインド以外のカレーの話を紹介している。第1話ではパキスタンのカレーがインドのものよりおいしかった、と書いたが、僕が自転車で旅したなかでカレーが一番旨いと思った国はマレーシアだ。ま、あくまで好みの話だけれど。
マレーシアはマレー系、中華系、インド系の人々が暮らす多民族国家だが、自転車でまわると、そのモザイクぶりは思いのほかはっきりと見てとれた。
インドなどの南アジアをまわったあと、シンガポールに飛び、そこからマレーシアに入ったのだが、その2日目のことだ。
道路はジャングルにすっぽりと覆われていた。ときどき森が開け、高床式の家が現れる。
夕暮れどき、寂れた町に着いた。「Batu Pahat」と標識に書かれている。あれ?と思った。詩人の金子光春がいた町では?
通りを歩いているのは中華系の人ばかりだ。古めかしい宿が現れた。営業しているのだろうか。階段を上り、2階の受付に行ってみると、ギョッとした。ロビーのソファに中華系のおばさんが4人、下着姿でだるそうに横になっていたのだ。......娼家だろうか。こんな田舎町に?
おばさんたちは不機嫌そうな顔のまま僕を見た。ふたりは編み物をしている。扇風機がカラカラと音を立てていた。
「ニーハオ」と笑顔で声をかけてみると、みんな怪訝な表情を浮かべた。
部屋は1泊20リンギ(約700円)で、普通に泊まることができるようだった。
宿代を払い、許可をもらって自転車を2階にあげる。おばさんたちは初めておや?と好奇の色を浮かべ、「どこから来たの?」と片言の英語で聞いてきた。
「アラスカからです」と言うと、おばさんたちは妙な顔をした。しまった。何かおもしろいことを言わなきゃ、とこの旅の出発地を言ってみたのだが、思いっきり外してしまった。
「えっと、出身は日本です」とすぐに言い直したが、おばさんたちはぼそぼそと何か言い合っただけだった。
その横を通り過ぎたとき、腋臭のようなにおいが鼻をついた。金子光春の世界が脳裏に広がり、ぞくっとした。
部屋に入って荷物を解き、水シャワーを浴びたあと、部屋を出た。おばさんたちに会釈すると、彼女たちはかすかな微笑を浮かべた。
夕暮れの街をぷらぷら歩き、食堂に入った。
いろんなおかずがバットに入って並んでいる。野菜を煮たもの3品と鯵の唐揚げを指した。食堂のおばさんはそれらを手荒くジャッジャッとご飯にのせていく。盛り付けもへったくれもない。言葉は悪いが、まるで残飯だ。しかしひと口食べると食欲に火がつき、一気にかき込んだ。やはり中華系の味だった。
翌日もうんざりする暑さの中を走った。ヤシの木がだらだらと流れていく。
前方に人影が見えた。頭にショールを巻いたマレー系の女性がふたり。道路脇にテーブルを出し、ココナッツジュースを売っている。大きなガラス容器が白い液体で満たされ、氷と白いゼリー状のものが大量に浮かんでいた。飲んでみると、さっぱりした甘さと冷たさが体に広がっていく。ゼリー状のものはココナッツの内側の膜らしい。タピオカのような歯ごたえがある。飲み干したあと、再び人差し指を立て、「もう1杯」と苦笑交じりに言うと、彼女たちもはにかむように微笑んだ。
そこを過ぎると小さな町が現れた。マレー系の人ばかりだ。これがマレーシアか、と思った。ある程度、地域ごとに民族が分かれて暮らしている。中華系の人ばかりのエリアがあったかと思うと、すぐに別のグループのエリアが現れる。
道路脇のココナッツジュース売りは、それからも次々に現れた。みんなマレー系の女性だ。彼女たちが現れるたびに、暑さから逃れようと自転車を停め、指を1本立てる。冷たいジュースに息をつく。
小さな町で日が暮れた。目に留まった安宿に入ると、インド系の女性たちがロビーにたむろしている。下着姿ではなかったが、その妖しい雰囲気から、ここも娼家か、それに類する宿のように思えた。
シャワーを浴びて街を散歩し、大衆食堂に入ると、目を瞠った。カレー系のおかずがバットに入って並んでいるのだが、数がすごい。黄色、赤、オレンジ、といかにも辛そうな暖色系の色が20種類ほど。見ているだけで唾が出る。
野菜カレー2品とイカのカレーをご飯にかけてもらった。口に入れると、スパイスの香りは鮮烈ながら、味全体は非常にまろやかだ。旨味が厚い、そんな印象を受ける。ココナッツミルクが入っているようだ。といってもタイカレーほどココナッツの香りは前面に出ておらず、控えめに、黒子的にコクを加えているようだった。北インドやネパールで食べてきたカレーとは明らかに違う。田舎の食堂なのに、ずいぶん垢抜けている。これが東南アジアのカレーということか。あるいは......自転車の上から眺めていた、街ごとに民族が移り変わっていく光景を思いながら、この複雑に入り混じった世界が、洗練と調和を生んでいるのかもしれないな、と考えていた。
文・写真:石田ゆうすけ