2021年5月号の特集テーマは「食堂」です。自転車で世界を旅した旅行作家の石田ゆうすけさんは、旅の中でまず重要なのは“食堂”とそこで使う“単語”を覚えること、だといいます。その理由と、どの国でも覚えるべき“必須単語”とは――。
海外を旅していると、“食堂”は新しい世界への“入口”のように感じられる。その土地の水、土、空気、そして文化が凝縮された食べ物を体に取り込む場所であり、また、往々にして越境後、最初に現地の人と交流する場所でもあるからだ。この“食堂”にどういう姿勢で臨むかで、旅は変わる。
言葉の話をしたい。
海外をまわる旅人のなかには「笑顔とジェスチャーでなんとかなるさ」と嘯き、現地の言葉を覚えようとしない人がわりといる。いまならスマホなど翻訳ツールに頼りきる人もいるだろう。たしかになんとかなってしまう。でも単純に、ヘタでもめちゃくちゃでも、現地の言葉で会話したほうがおもしろいし、また、その国にお邪魔させてもらっている以上、現地のやり方に従うのが礼儀だという気がする。こちらのルールは捨てて、その土地のものを吸収させてもらう。それぐらいの姿勢でいたほうが、世界は広がっていく。旅行中、僕が「旅っておもしれえ!」と最も高揚したのは現地の人たちと、たどたどしくも現地の言葉でやり合い、ゲラゲラ笑っているときだった。
旅で使う単語はだいたい決まっている。何度も国境を越え、各地の言葉を覚えていくうちに、僕のなかでは次第にマニュアルができていった。入国1日目、2日目、3日目……と、それぞれに覚える必須ワードがある。国境には英語を話す人がたいていいるので、現地でなんと言うか聞き出し、手の甲に油性マジックで書く。僕は自転車旅行だったため、走りながらそれらを丸暗記した。どうせ道中は暇だし、どこまで空で言えるか、ゲーム感覚でやれば結構おもしろい。
最初に覚える言葉は、月並みだが、挨拶と数字だ。数字は紙に書いて見せれば伝わるが、その紙が、地元の人と旅人を隔てる壁になる。宿でも店でも「何泊?」「いくつ?」「いくら?」と数字が会話のメインになるから、口でスッと言えれば楽だし、楽しい。また「これ」「それ」などの指示代名詞も1日目に覚えておきたい。
2日目に覚える言葉。ここからがセオリー無視、僕のオリジナルだ。これだけで現地の人との会話が成立してしまう魔法の3語である。英語で言えば、「good」「very」「a little」だ。これらを現地の言語で覚えよう。
冒頭に書いたとおり、現地の人との最初の交流場所はたいてい食堂だ。自転車で田舎を巡る旅だと、なおさらその傾向が強くなる。食堂に入ると、村人たちが一斉にこっちを見る。日本人を見るのは初めてという人もいるに違いない。まずは現地の言葉で挨拶しよう。人々は「おや?」という顔をする。にこやかに微笑む人もいる。
次いで注文だ。会話集の『レストランで』のページには「May I have a menu, please?(メニューをください)」とかなんとか載っているだろうが、こんなできあがった文を入国2日目に覚える必要はない。料理のオーダーは指示代名詞を使えば簡単。人々が食べているものを見渡し、うまそうなものを指差して、「this, this」と現地の言葉で言えばいい。
やがて料理が運ばれてくる。人々の視線にはますます好奇の色が浮かぶ。この外国人は我が国の料理をどんな顔で食べるのだろう。うまそうに食べるのか、それとも……。
ここで「good」の出番だ。実際の味は「bad」だったとしても、ここで言うべき言葉は「good」だ。自国の料理をほめられて嫌な人はいない。料理を飲み下すと同時に「Good!」と、その土地の言葉で言えば、途端に人々の顔がほころび、場が華やぐのがわかる。「おいしい」という言葉の持つ力よ。異文化間だけでなく夫婦間さえも明るく照らすスーパーワードだ。
しかし、「good! good!」と言い続けるだけではさすがに間が持たない。「ああ、こいつはバカのひとつ覚えで言っているのか」と見透かされる。
そこで「very」の出番だ。その単語にたっぷり気持ちをのせて、さあ言ってみよう。
「ヴェリィィィ、グゥゥッ!」
どうです?「グッドグッドグッド」と比べて、言葉が表情豊かになったでしょ?
効果はてきめん、それまで遠巻きに見ていた村人たちも「お?」と急に擦り寄ってくる。このあと彼らが何を尋ねてくるかは、もう聞く前からわかっている。
「お前、しゃべれるのか?」
いよいよ「a little(少し)」の出番だ。大事な言葉なのだ。知らなければ、せっかく話しかけてくれた村人たちに、無言で愛想笑いをするほかなく、彼らも困ってしまう。
実際のところ、「しゃべれるのか?」の問いには、迷わず「No!」と答えるべき言語レベルだが、Noは拒絶の言葉だ。言った途端、彼らとのあいだに再び結界が張られてしまう。だから「a little」でいい。「No」なら会話は終わるが、「少し」なら会話は回り続けるのだ。彼らは笑顔でどんどん話しかけてくれる。が、これはこれでちょっとつらい。何か違う言葉を返さないとすぐに追い込まれてしまう。どうしよう。ああ、「少し話せる」なんて言ったばっかりに……。
でも、何か忘れていませんか?彼らに使える言葉が、まだ残っているじゃないですか。そう。
「very little(とても少し)」
彼らは「ああ、なるほど」と眉を開き、首肯してくれるはずだ。
このように、新しい世界への入口“食堂”で、会話を“回す”ためのキーワードや、「おいしい」など地元の人に喜んでもらえる言葉、要するに食堂で盛り上がれる単語を覚え、発することで、互いに好意を抱くことができ、旅は劇的に変わるのである。
というわけで、次に覚える言葉は「この国、大好き」と「おねえさん、きれい」だ。
文・写真:石田ゆうすけ