市場旬ばなし
マグロ屋の包丁砥ぎ|市場旬ばなし⑪

マグロ屋の包丁砥ぎ|市場旬ばなし⑪

マグロの巨体を切る包丁は日々砥がれる。豊洲市場の文化団体「銀鱗会」の事務局長である福地享子さんが、2018年11月までdancyu本誌で執筆していた「築地旬ばなし」の転載です。

マグロ屋さんの“包丁砥ぎ”の不思議力。騒音だらけの河岸も、そこだけは、ただ静寂。

別世界のことみたいに見入ってしまうのが、包丁砥ぎだ。恍惚の時間やね、これはもう。ステンの板っきれとしかいえぬマイ包丁が頭に浮かんで猛省をうながすが、きっちり払いのけ、アホみたいに見とれている。

とくにマグロ屋さん。ヒレを切り落とす出刃、身を半割りにする半切り(半丁)包丁、骨から身をはずすおろし包丁などが作業台にならぶ。砥ぐ前に、盛大にクレンザーを使って、柄から刃までしごいてしごきまくる。道具は荒縄を巻いたもので、通称「磨き」。マグロの脂を落とす荒療治である。

砥ぎにかかる。ほんまもんの天然の砥石だ。足をふんばり、砥石にかがみこみ、刃をすべらせていく。シューッ、シューッ。前に刃がすべるとき、音に合わせるように、上半身も前へ流れる。不思議なもので、雑音だらけの河岸なのに、ここだけは、突如、強固なバリアを張ったみたいに静寂そのものとなる。砥ぎ手の額には汗が噴き出している。私の体はツララみたいに冷え切っている。それでも立ち去れない。

毎日のことだから、包丁はすり減っていく。刃渡り1メートル近くの半切り包丁の終着点は、さくどりするための刺身包丁になる。多くは福井県越前市の越前打刃物師の特注品だ。関西の刺身包丁、「蛸引き」を異様なまでに長くした、といえるおろし包丁、そのお値段は刃10cmにつき1万5千円也。それがすり減っていく。小心者の私は、めまいがしそう。
これがプロの仕事ってものだ。

だけどヤモメのヤマちゃんがいつか言ってたな。
「仕事だから砥ぐけどよ、うちで切れない包丁でやってもなんとかなるもんなあ」

料理人が、うちで料理はやらないように、なかなかプロっぽい発言である。この言葉に勇気を得て、だから、わが包丁はステンの板っきれのまま。言いわけにはなってないけど。

旬事情
場内、場外市場ともに包丁専門店は多い。プロ向けだけでなく、家庭で使えるものもある。刃の部分に名入れなぞしてもらえば、一生もんのマイ包丁になる。

文:福地享子 写真:平野太呂

※この記事はdancyu2015年12月号に掲載したものです。

福地 享子

福地 享子 (豊洲市場銀鱗会事務局長)

豊洲市場の文化団体、銀鱗会の事務局長。豊洲市場内の資料室「銀鱗文庫」のお留守番役。築地市場時代の雰囲気を残した銀鱗文庫は、ミニギャラリーも併設。見るのが楽しい資料室となっている。