新橋にある「BAO」は羊好きの魔窟と言える店です。お好きなみなさんならご存じのように、羊はクサいとか、カタいとか、そんなのは昔の話。今や幅広いジャンルで、香り高く軽やかで、素晴らしくおいしい羊料理が食べられます。そんな羊がおいしい店をご紹介します!
羊好きの魔窟、そんな言葉が頭に浮かぶ。紅い壁に囲まれた8畳ほどの空間に、ムンムン立ち込めるマトンの香り。店主のBAOさんがカウンターからフランクに話しかけてくる。人の心を包むような笑顔に、頼もしい言葉。“新橋の母”に会いに今日も人が集まってくる。小さい店なのに、毎晩半頭の成羊がはけるのだ。
「うちはマトンを使うの。ラムより旨味が濃いし脂がおいしいからね」
中国・内モンゴル出身のBAOさんが留学生として来日したのは28年前。料理好きで9歳の頃から進んで台所に立っていた彼女は、日本でも知人の店を手伝っていた。ある日、BAOさんの料理の腕前に惚れた食通が、彼女の羊料理を囲む会を開催。食べた一人がすぐにBAOさんのスポンサーに名乗り出た。こうして3年前に店をオープン。半年の期間限定と決めていたが、どんどん客がついた。
羊の塩ゆでが出てきた。肉塊がぶるん、と揺れる。柔らかい肉を口いっぱいに頬張ると、濃厚な甘い肉汁が歯の間からあふれ出し、思わずため息をついた。なんて官能的な旨味だろう。
「枝肉で仕入れた半頭をさばいて強火でゆでるの。調味料は塩だけよ」
旨味の量が数値化できるなら、家畜肉のトップは羊じゃないだろうか。常々そう思うのだが、この塩ゆでを食べたら確信に変わった。こんなシンプルな料理が成り立つ肉は、羊以外ない。
「羊が苦手な人も誘われて来るけど、これを食べたら、みんなエッ?と目を丸くしてるわよ。うちで羊を好きにならなかった人っていないわ」
そういえば羊特有の臭みが一切ない。
「大事なのは火加減と塩を入れるタイミング。それと化学調味料は羊の臭みを出すと思うので、私は絶対入れない」
小籠包に似たボーズを口に入れると皮が裂けてスープが飛び出し、粗挽きの羊肉が弾んだ。再び恍惚に包まれる。
「羊のおいしさを日本に伝えたいの」
BAOさんのその思いは着々と実を結んでいる。豊満な旨味に魅了され、今日も魔窟へ一人、また一人……。
文:石田ゆうすけ 写真:宗田育子
※この記事の内容はdancyu2018年6月号に掲載したものです。