東京の中でも観光地として人気がある下町。歴史的な建造物やランドマークはもちろん、美味しい出会いがいっぱいの街です。そんな下町散策に役立つかもしれない、地名の豆知識をご紹介します。
記録では1181年頃からの名称。草が生い茂っていた武蔵野の中でも、早くに開け、浅い草むらが散在していたことから生じた名前。
王子から日暮里・上野台地の麓に通じ、隅田川に注いでいた音無(おとなし)川。現在は暗渠になったが、そこが江戸時代からうぐいすが美しく鳴く名所として有名だったことに由来する。
1620年、鳥越にあった丘を崩し、幕府が集めた米を収納する蔵(御米蔵)が建設されたことに由来。
1624年頃、この地に猿若座(のちの中村座)と村山座(のちの市村座)が歌舞伎上演の芝居小屋を建てた。周囲には見世物小屋、曲芸、人形芝居などの小屋が立ち並び繁昌した。その当時、みやげ物の人形をつくる細工師や、それを売る店が道の両側に並んでおり「人形町通り」の俗称が生まれたという。
1051年、源頼義、義家の奥州征伐の際、この地で陣営を張ったが、当時はここから日暮里付近まで海が入り込んでおり、軍勢の渡るすべがなかった。そのとき名も知らぬ鳥が海を越えて行くのを見て、それを目標に無事浅瀬を渡り終えることに成功。付近の白鳥大明神の加護によることと信じた義家が、鳥越大明神と改名し、地名になったと伝えられる。
約800年前に源頼朝が奥州征伐した際、この地にさしかかり時刻を尋ねたところ、家臣が「四つ過ぎなるべし」と答えたため、後年ここを「四つ過ぎ」と呼んだ。これが転じて「四つ木」になったという。他にも、4本の老松が空高くそびえていたから、という説もある。
『万葉集』には勝鹿、勝牡鹿、可都思加、可豆思加などと表記されていた。現在の表記は江戸時代の頃からの当て字であり、カツシカは「狩場の方」の意味だとも言われている。その一方で、広い原野で葛かずらが深く生い茂っていたから、という説も。
古代に道しるべとして棒状の石が設置されたことに由来。かつては地上約1メートルも露出していたと言われ、住民の信仰の対象であった。現在でも「立石様」として史跡が残るがその大部分が埋まっており、現在露出しているのはほんのわずかである。
参考文献/浅井得一著『東京地名風土記』、本間信治著『江戸東京地名事典』、菊地秀夫著『江戸東京地名事典』、東京都台東区編『下谷・浅草町名由来考』、入本英太郎著『葛飾区の歴史』、中江克己著『お江戸の地名の意外な由来』
イラスト:かざまりさ 文:森田彩子
※この記事の内容は2018年5月号に掲載したものです。