実家のガスレンジの上には中くらいの手鍋が置いてあって、蓋を開けると、たいてい煮物が入っていた。たけのこ、れんこん、ごぼう、にんじん、こんにゃく、鶏肉。昨日の残りの、筑前煮だ。誰の目もないのをいいことに、洗わない手を鍋に突っ込んで、れんこんを口に放り込む。ほくほくとして、芯まで味が染みている。母の作る煮物は、出来合いの物に比べ、だいぶ薄味だった。血圧の高い父の健康を気遣って、味噌汁も浅漬けも塩分をおさえている。濃い味の肉料理が好きな父はいつも不満げだったが、母は遅く帰る父を待って、焼き魚の骨を外してあげたり、果物を剥いてあげたりしていたものだ。
ガスレンジのコンロの奧には、押しやるようにして、小さい手鍋も置いてあった。蓋を開けなくてもわかる。ごく薄い味付けで炊いた、切り昆布だ。毎日必ず作っているのに、食卓に乗ることは一度もなかった。見た目が地味すぎるからかもしれない。鍋の中で、くすんだ緑色だけがとぐろを巻いている。
ある日、中鍋の蓋をあけると、袋煮が1つだけしかなかった。開いた油揚げに、具がパンパンに詰まったものを甘辛く味付けした、私の大好物である。こっそり囓りたいが、確実にバレるだろう。仕方がないので、小鍋の昆布を数本つまんで、口に入れてみることにした。想像より歯ごたえがある。染み出す昆布のうまみと、磯の香りがクセになりそうだ。あと数本。もう数本。昆布はあっという間に、鍋の半分になってしまった。翌日も、その翌日も、私は昆布をつまんでは、口に入れた。さすがに母は気付いただろう。それでも食卓に切り昆布が並ぶことはなく、盗み食いをしていることについて、何か言われることもないまま、ほとんど口も利かずに家を出てしまった。切り昆布の煮物は、母と私の大好物であり、それは母と私だけの、暗黙の秘密だ。
『ただいま神様当番』は、ある住宅街のバス亭で、毎朝同じ時間に顔を合わせるメンバーに、それぞれ神様の当番が回ってくる群像劇だ。当番である間は、腕に「神様当番」という文字がデカデカと表示され、そこに宿った神様の欲求が満たされるまでは居座り続けるのだ。従業員に愛想を尽かされた零細企業の社長にも「神様当番」は回ってくる。怒りっぽくて、無神経で、傲慢なところがある社長だが、奧さんの八重子さんは鷹揚で明るく、夫の短所も「お茶目」と笑い飛ばす。神様も八重子さんのことが大好きなようで、彼女の作った筑前煮の残りを、私のように鍋からつまんでは、絶賛していた。
この物語の神様はきっと、人間の願い事を叶えてあげるために存在するのではないのだろう。神様の無茶な願いを叶えようとすることで、大切なものに気付き、本当の願いを自分自身で叶えていく。私に「神様当番」がまわってきたら、きっと神様はガスレンジの上の鍋の蓋を開けて、私が作った肉じゃがなんかをつまみ食いするだろう。そのうち調子に乗って、「わし、切り昆布の煮物が食べたいの」なんて言い出すのだ。なんでよりによって、あんな地味なものを……。
そして私は気付く。母に切り昆布の煮物の作り方を教わらなかったことを、ほんの少し、後悔していることに。
文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子