世界の○○~記憶に残る異国の一皿~
スペインのバルで虜になった「タコのマリネ」|世界のおつまみ①

スペインのバルで虜になった「タコのマリネ」|世界のおつまみ①

2020年9月号の第一特集は「夏のおつまみ」です。旅行作家の石田ゆうすけさんは、「おつまみ」と言われて思い浮かべる国といえばスペインだといいます。石田さんが感じたスペインの魅力とは――。

スペインといえば「バル」

夏のおつまみ。また難しいテーマだ。
そもそも海外には「おつまみ」という概念があまりないような……。
海外では酒場はひたすら飲むところだ。イギリスやアイルランドのパブのように食事を出すところもあるが、おつまみかというと何か違う感じがする。日本の居酒屋のように酒のお供として料理を出すところといえば、パッと思いつくのはひとつしかない。日本でもすっかりおなじみになったスペインのバルだ。

世界中を巡って帰った後は、人と会うたびに「どの国がよかった?」という話になる。一番を選ぶのは難しいが、ヨーロッパで区切れば、僕の頭にまず浮かぶのはスペインだ。で、その理由の80%ぐらいはバルなのだ。それぐらいバルは楽しい。いつもドアが開いていて入りやすく、地元の人たちが和気あいあいと飲んでいる。そして何より料理も酒も旨い。

バルといえばタパスだ。各種タパスが大皿に盛られてカウンターに並び、客は料理を見ながら指を差すだけで注文できる(日本のバルを名乗る店でこれをやっているところってあるのかな?僕は見たことないんだけど)。

どのタパスも見事に旨かったけれど、「夏のおつまみ」ならタコのマリネだ。
海外自転車放浪を始めて3年以上が過ぎていたが、それまで僕は市場でも食堂でもタコを見たことがなかった(このときまだイタリアやアジアは未訪問)。それがスペインのバルに行った途端、タコが大皿に盛られ、しなをつくってオイデオイデと誘惑してくるのだ。矢も楯もたまらずそれを指さした。
小皿にのって出されたタコのマリネは小悪魔的に美しかった。さいの目にカットされた野菜たち、ピーマンの緑、トマトの赤、タマネギの白、そしてタコのピンク、それらがオリーブオイルにからめられ、陽光を浴びたように光っている。スプーンですくい、口に入れる。透明感のあるスペイン産オリーブオイルの高雅な香りとニンニクの香り、タコの弾力と野菜のシャキシャキした食感、それらが混じり合い、食材たちが口内でフラメンコを踊りだす。ビールをグビリと飲む。顔が緩む。マリネを放り込む。タコと野菜が再びフラメンコ。ひとり、くつくつと肩を揺らす。顔を上げると地元の人たちも笑顔で飲んでいる。

それからバルで飲むのが日課になった。夕方、町に着くとバルに自転車を横付けして飲んで食べる。タコのマリネはたいていの店にあり、毎回頼んだ。さっぱりした味わいは走り終えたあとに食べるのにもってこいだったのだ。
荷物満載の自転車を見て人々が話しかけてくる。美味と美酒に酔い、僕も饒舌になる(スペイン語は中南米である程度話せるようになっていた)。ほどよく酔っ払い、みんなに別れを告げ、走り出す。町を出ると、森に入ってテントを張り、笑顔のまま眠りにつく、そんな毎日。スペインが大好きになるわけだ。

ある日、町の10kmほど手前で暗くなったのでオリーブ畑にテントを張り、メシをつくって食べた。あとは日記を書いて寝るだけだ。でも何か足りない。このまま1日を終えていいのだろうか。タコが身をくねらせ、オイデオイデしている。ビールがウィンクする。手がブルブル震えてきた。
「いーや、いいわけがない!」
もはや冷静な判断はできなかった。テントを張ったまま、荷物一式をオリーブ畑に放置し、身軽になった自転車で10km先の町にぶっ飛ばした。そうしてバルに入り、タコのマリネをはじめ、鶏肝煮や生ハムをつまみながら、ビールやワインを飲んで地元のオヤジたちとゲラゲラ笑った。
荷物一式を盗られるリスクを冒してでも行かずにおれなかったバルの国、スペイン。ここで初めて、自分の中に秘めたるアルコール依存症の萌芽を疑ったのだった(ならなかったけどね)。

文:石田ゆうすけ 写真:伊藤徹也

石田 ゆうすけ

石田 ゆうすけ (旅行作家&エッセイスト)

赤ちゃんパンダが2年に一度生まれている南紀白浜出身。羊肉とワインと鰯とあんみつと麺全般が好き。著書の自転車世界一周紀行『行かずに死ねるか!』(幻冬舎文庫)は国内外で25万部超え。ほかに世界の食べ物エッセイ『洗面器でヤギごはん』(幻冬舎文庫)など。