洋食の町、横浜で75年もの長きにわたり、変わらぬ味を提供する店があります。その名は「センターグリル」。昔から変わらない味わいのナポリタンは、どんなフライパンから生み出されているのでしょうか?
ひとは人生で何皿のナポリタンを食べるのだろうか。
こどもだった頃、桜木町駅はちょっと嫌な駅だった。幼い頃から近眼になってしまい、かかりつけの古い眼科の最寄り駅が桜木町駅だったのである。昭和六年に建てられたという建物は重厚で大好きだったが、その目医者に行くと、いつも目薬をさされた。
「瞳孔開いちゃうからしばらくここでじっとしててね」
と言われて待ち合い室で瞳孔を開いてじっと待った。退屈だったし、古いビルはコワかった。
ただ楽しみもあって、帰り道に謎の街を横切ることだった。
賑やかそうなのに、人気がない街。昼間の野毛には、人がいなくて、昭和なテーマパークのようだった。そして真昼の盛り場は、昼寝中の職人さんのようで声をかけてはいけないような雰囲気があった。
何軒かの中華屋は通しでやっていたので、そこで時々食事をして帰った。その店は、もう思い出せない。ただ、その中華屋の近くでいつも見かける店があった。
その店が、とにかく格好よかったのである。見るだけでワクワクした。
その店の名は「センターグリル」と、いった。
小さなアーケードが張り出した玄関にガラスのはまったドア。そしてマークがすこぶるつきに洒落ている。青い丸に赤いリボンが横切る意匠。そこに誇らしげに書いてある「米国風洋食センターグリル」の文字。米国風、ってなんだろう――。
そう思いながら、ようやく訪れたのは、それから10年以上経ってからだった。そして、あの店の格好よさは、見た目はもちろん、その実力によるものだったと再認識したのである。それは、この店のナポリタンから喰らったパンチのせいだ。私は、この店のナポリタンを食べてノックアウトされた。
実際この店のナポリタンときたら、魔法のような、一度食べたら虜になってしまう一皿なのである。その魔法というのが、ちょっと特殊で……。
とまれ、魔法の一皿をつくるには魔法使いと魔法の杖がある。つまり料理人とフライパンがある。知りたい虫が騒ぎ過ぎて手に負えなくならないうちに、「センターグリル」を訪れたのである――。
アレ?ちょっと違うぞ。
店を前にして戸惑った。
よく考えてみると案外久しぶりなのであった。相変わらず格好いい店なのだが、ちょっと様子が違う。しばらくぶりにあった同級生が、急にイケメンになってたみたいな軽い違和感をおぼえた。それとも私がばかになっちゃったのか。
「2年ちょっと前に改装したんです」
三代目店主の石橋正樹さんが戸惑う私に教えてくれた。店自体は1946年の創業だから老舗と呼ぶに相応しいけれど、こうして進化を続けている。頼もしい。ただ、メニューは、基本的にはほとんど変わっていない。もちろん件のナポリタンも、だ。
厨房へ案内されると、白衣を着たツキノワグマのような巨漢のチーフが待っていた。
「センターグリル」は石橋さんが店の切り盛りをし、厨房はチーフの岡戸康之さんが取り仕切っているのだ。岡戸さんは、19歳でこの道に入り、この道35年。「センターグリル」のキッチンを引っ張るようになってすでに13年ほどになる。
そして、いよいよフライパンを見せてもらうと――。
割とよく見るタイプの黒い鉄のフライパンだった。こないだ(第一回)と同じヤツ……、むむ。
ただ、チョット違う。なんだろう。私はメガネをふいて、もう一度見た。
――けっこう、フツーのですね。でも、なんか不思議な感じがしますが。
「そんなに珍しいものではないですよ」
弘法、筆を選ばずならぬ魔術師は魔法の杖を選ばず、というパターンだろうか――。
件の黒いフライパン、直径は30センチのものだ。大きめだが、持たせてもらったら思ったよりは軽い。感じた「不思議」は、そのせいか?いやそればかりではなさそうだが……。
「あったまりやすくて、ふりやすいことが大事なので、うちでは一番薄いタイプを使うんです」
で、おもむろにナポリタンを作りはじめた岡戸さん。コンロの火はかなりの強火だ。
バットには茹でたスパゲティがのっている。
実は、「センターグリル」のナポリタンのパスタは、前日に茹でたものを一晩冷やしたものをつかっている。太さは2.2ミリのものを15分ほど茹でる。それを水でしめてから、一晩寝かすのである。これが独特の食感につながる。
さて、件のフライパンを火にかけると、まずは野菜を炒める。そしてスパゲティ、水、ケチャップと投入していく。この流れが美しい。火加減は常に最良の状態に見える。材料を入れるたびに温度が激しく変わりそうだけれど、
「だから薄いフライパンを使うんですよね。温度が下がってもすぐに元にもどる」
そういって岡戸さんは、パーカッショニストみたいに、五徳に結構強めにゴツゴツとぶつけるようにしてフライパンを踊らせる。厨房にはナポリタンの、甘味と酸味があいまった香りがたちのぼる。卒倒しそうにいいにおいだ。
文:加藤ジャンプ 写真:岡本 寿