2020年8月号の第二特集は「気持ちいい店に行こう!」です。本誌では東京の開放的で気持ちの良い店を紹介しましたが、自転車ひとつで世界をまわった旅行作家の石田ゆうすけさんが出会った「気持ちいい店」とは――。
今回のお題は「気持ちいい店」だ。自転車世界旅行の記憶をたどりながら、どこの店がよかっただろう?と考えていると、アフリカの日々がよみがえってくる。大地にきらめく朝の光、人々の笑顔、サバンナを渡る風、悠々と歩く動物たち、何もかもが気持ちよかった。
そんな地域で飲む酒が気持ちいいのは当たり前で、その日たどり着いた村の酒場に毎晩出かけては、地元の人たちとゲラゲラ笑いながら飲んだ、という話は以前書いた。
そういった、人との交流がステキだから気持ちいいみたいな“紀行あるある”話ではなく、ただひたすらロケーションが気持ちいい店を挙げるなら、アフリカ南東部の国マラウイで行った店だ。
この国にはマラウイ湖という巨大な湖がある。訪れる前から、そこでは絶対に泳ぐまい、と心に固く誓っていた。この湖に関するゾッとする話を、ひどい目に遭った当事者から直接聞いていたからだ。
彼はマラウイ湖で泳いだらしい。そのあと体調を崩し、病院で検査してもらったら「えらいこっちゃ」となった。エイリアンのようなやつが大量に彼の体に巣くっていたそうだ。そいつは人の肌を食い破って体内に侵入し、変態しながら1~2cmに成長して血管に住みつき、赤血球をワシワシむさぼり食いながら卵を産んで増殖し続け、最悪、宿主を死に至らしめる。その名も住血吸虫……うう、字面からしておぞましい。音もしかり。じゅうけつきゅうちゅう。ああ、虫唾が走る。
……気持ちいい店の話だった。
このマラウイ湖に向かって坂道を下っていると、「Scenic Bar」と書かれた看板が目に入った。ブレーキをかけ、中に入ってみる。テラス席に出た瞬間、目を見張った。高台からウッドデッキが湖側にせり出し、足下には小さな湾と小さな岬が、箱庭のように広がっている。綺麗な湖だった。小さな岬の向こうには、コバルトブルーの湖が外海のように果てしなく広がり、空と溶け合っていた。
湖が最もよく見渡せるデッキのへりの席に座り、ビールを飲んだ。ゆるやかな風が髪をなでる。アフリカの風がひときわ優しく感じられるのは、アフリカ自転車行がそれなりに過酷だからかもしれない。父の雷の後の、母の抱擁のようなものだ。
便箋を取り出し、手紙を書き始めた。ときどき筆を休め、景色を見ながらビールを飲む。この気持ちよさは、景色の美しさに加え、デッキに安全柵がないからだろうなと思った。あるとないとじゃ解放感がまるで違う。酔っぱらって落ちる人もいそうだが、そんなのは自己責任といわんばかりだ。
日が沈み始めたので、湖畔の村に下り、安宿に泊まった。
翌日、出発する予定だったが、「Scenic Bar」での時間が忘れられず、迷った末に連泊し、再び店に行って文庫本を読みながら、ビールを飲んだ。
次の日も出発できず、店に行くと、店員がにやりと笑って、デッキのへりのいつもの席に案内した。
翌朝、「今日こそは」と思ったが、出発準備をしていると、「やっぱりやーめた」とすべて投げ出し、店へ……というわけで、バーが気持ちいいという、たったそれだけの理由で、湖以外何もないこの村に4泊したのだ。
空に浮かんでいるようなバーのテラス席から、巨大な湖を連日ぼんやり眺めていたら、なんだかいろんなことがどうでもよくなってきた。湖では村人たちが泳いでいる。僕も湖に下りて一緒に泳いだ。水の中にはかわいい熱帯魚がたくさんいた。
その後、とくに体調の変化はなかったが、アフリカを走り終えてロンドンに行ったとき、一応検査してもらったら、陰性だった。
だからのんきなことが言えるのかもしれないが、あのバーの気持ちよさは、じゅうけつきゅうちゅうすら忘れさせるほどだったのだから、相当なものだと思う。
文・写真:石田ゆうすけ