カメラマンが、いつかまた食べたい料理
キナバル山の豚、春松さんの米、西津軽のハタハタ|カメラマンが、いつかまた食べたい料理

キナバル山の豚、春松さんの米、西津軽のハタハタ|カメラマンが、いつかまた食べたい料理

カメラマンの奥山淳志さん。今、食べに行きたい、会いに行きたい料理はなんですか?と聞くと……。

奥山淳志さんが食べに行きたいのは――。

ボルネオ島・キナバル山の豚

ボルネオ島・キナバル山の豚
2年前、レンタカーを借り、グーグルマップの衛星写真を頼りに向かったのは、ボルネオ島のキナバル山の麓にあるドゥスン族の村だった。 村の有力者に頼み込んでホームステイをこぎつけ、山の急斜面に家が点在する村を散策していると、村人たちが集まって何やら作業をしていた。訊ねてみると、2日後に行われる結婚式に向けて準備をしているのだという。 キナバル山の暮らしをテーマに写真を撮りたいと思っていた僕にとっては、こんなに都合の良い話はなかなかない。さっそく、準備から撮らせてもらうことにした。 結婚式はまさに手づくりだった。女性たちは花嫁の家の台所に詰め掛けて大量のおもてなし料理をつくり、手が空いた者は式の会場となる公会堂を飾った。力仕事が終わった男たちは豚の解体にとりかかった。かつては野生のイノシシを獲っていたが、最近は町から豚を丸々1頭買い付けてくるようになったという。豚は驚くほど丁寧に解体されていった。皮から腸まで、実に美しくバラされたそれは肉体を構成する部品のようでもあった。驚いたのは、この解体のルールを男たちが皆、共通の知識として持ち得ていたことだ。大きな山刀を手に肉をさばいていく男たちで、解体の方法を問うものはひとりもいなかった。そして、数時間もすると肉も骨もすっかり料理の中に紛れ込んでしまって美味しそうな匂いが漂うだけとなった。 結婚式では、このご馳走をみんなで笑って食べ、両手を鳥のように広げるドゥスン族の踊りで輪になって再び笑った。最後は玄米で作ったどぶろくをしこたま飲んで酔っ払った。 あの1頭の豚を思い起こすと、特別な幸福という言葉が頭をよぎる。それはハレ食というものなのだろう。食べ物に肉体を育む力以上のものがあるとしたら、それはあの日感じた、幸せの共感を生む力なのだと思う。 キナバル山は標高4000mでその頂きはいつも雲の上にある。訪れた先の村人たちは「俺たちは死んだらあの山の頂上をたどって天高くまで飛んでいくんだよ」と言って笑っていた。死んでしまうのはもう少し先にしたいけれど、僕も遠くに飛んでいく日を心待ちにしている。

岩手・雫石 春松さんの米

岩手・雫石 春松さんの米
東京から岩手に移住したばかりのことだから、もう20年以上前のことになる。当時、まだ20代の半ばだった僕は、雫石という小さな町で、田園と呼ぶのに相応しい集落の外れにあった空き家を借りた。 今でもそうなのだけれど、当時の僕は本当に何者でもなかった。カメラを手に生きていこうとは思ってはいたけれど、肝心な方法がわからずカメラを手にあちこちを無闇にほっつき歩くしかなかった。でも、東北という風土は当時の僕にとって本当に新鮮で、そこにカメラを向けるだけで満足だった。そんな日々を続けていくなかで何人もの素敵な人たちに出会った。 「あの頃は」というと、途端に自分が歳をとってしまったように感じるけれど、当時は、まだ古い時代を知る人たちがたくさんいた。遠い時代を生きてきて、見てきたものも、価値観も違う彼らと触れ合うことは本当に新鮮だった。大きな街の郊外に造成された新興住宅地の核家族育ちという僕のバックボーンも関係しているのだろうが、雫石の古老たちとの出会いは、“すでに去ってしまって会うことができない世代”を目の前にしているという印象を僕に与えた。 そんな古老の一人に、春松さんというおじいさんがいた。その朗らかな名前通りの人で、酒を飲んだら、古い昭和歌謡を踊り付きで披露してくれる陽気な人だった。でも、春松さんらしさを伝えるのは働き者という一言だろう。 僕が借りた家から春松さんの田んぼが見渡せたのだが、春松さんは春から秋にかけて、いつも田に立って手を動かしていた。稲を育てる仕事について何も知らない僕にとっては、なぜ毎日、朝から晩まで田に立つ必要があるのかわからなかったが、窓の向こうに広がる田の中に春松さんがいるという風景が、僕にとっての日常になっていった。 秋が深まったある日、そんな春松さんが我が家にやって来た。目の前の春松さんの田んぼはすでに稲刈りが終わっていて、2週間ほど前からはハセがけされた稲穂が秋の陽光を浴びていた。 春松さんは、「べっこ(少し)だども、新米だあ」と言って手にしていたスーパーのビニール袋に入った米を差し出した。僕は言われるがままに受け取り、そして少し驚いた。まだ米がほかほかと温かだったからだ。僕のその表情に春松さんは気づいたのか、「ついたばかりの米はあったけえんだ」と笑った。「米をつく」と聞いて、一瞬餅を想像したが、それが精米を指す言葉なのだと知った僕は何度もお礼の言葉を述べた。僕が精米機を持っていないことを想像して、春松さんはわざわざ精米仕立ての米を届けてくれたのだった。 その夜、春松さんの米を炊いて食べた。こういう文章を書くのだから、「本当に美味しかった」となるのが当然だろう。でも、実際はこうしたあり大抵の表現を超えるものだった。初めての米の味とでも言えばいいだろうか。ふくよかで香り高く、味わい深い。それまでの僕の人生で天日干しの精米仕立ての米なんて食べる機会はなかったから初めての味で当然ではあるけれど、なんだかとっても衝撃的な美味しさだった。僕は茶碗の中で湯気を立てている米をしげしげと眺め、そうか、これが春松さんの米の味なんだと、朝から晩まで田に立ち続けるその姿を想像して妙に納得した気持ちになったのだった。 数年後に春松さんはあっけなく逝ってしまうことになるが、毎年、秋になると収穫したばかりの米を持って来てくれた。僕にとって春松さんの米を食べることは、巡り来る秋の大切な行事となっていた。 コロナが去ってくれたとしても今では春松さんの米を食べることは叶わない。でも、穏やかな秋の光のなかで輝く稲穂を眺め、変わりなくすぎる日常のなかで雫石の米を食べてみたいと改めて思っている。

青森・西津軽のハタハタ

青森・西津軽のハタハタ
津軽の西海岸では、12月を迎えると強風が吹き、海が荒れ始める。長い冬の始まりだ。しかし、この地に暮らす人は、12月の時化を待ちわびている。荒れた海はハタハタという贈り物を届けてくれるからだ。 ハタハタは通常であれば深海に暮らしているが、一年に一度、陸に近い浅瀬で産卵する。しかし、ハタハタはあまり泳ぎが得意ではないらしく自分の力では深い海から陸地付近の浅い海へと向かうことができない。そこでハタハタたちは12月初めの時化の勢い、つまり荒れた波に乗って浅瀬に向かおうとするのだ。 この現象を土地の人は「ハタハタの接岸」と呼ぶが、それはまさに自然からのギフトだ。普段は見ることもない魚がある日突然、荒れた波に乗って大群で押し寄せてくるのだ。土地の人たちにとって、大量のハタハタたちが跳ね回る姿は、長い冬を生き延びるためには必要な糧という実質的な意味だけではなく、自然から生きることを認められたという思いにも通じていたのではなかろうか。ハタハタで湧き返る海の町は、普段の祭り事を超えた気配を帯びる。 軽トラの荷台に一杯、二杯と大量に採ったハタハタは、まず新鮮なうちに汁などにして食べる。「馬の息でも煮えてしまう」と土地の人が言うだけあって、汁に浮かぶハタハタは本当にさっと湯をくぐらせた程度。レアなハタハタの身をずるずる飲むようにして食べるのが土地の流儀だ。そして、それ以外は保存食に。大きなかめに手際よくなれずしを作っていく。味つけはもちろん家庭ごとに異なり、一度食べ慣れてしまえば、その味から一生離れられなくなるもんだと誰もが語る。 はじめてハタハタ漁を見せてもらった西津軽の大間越という小さな海辺の町では、コロナ禍によってすべての祭りを中止することになったという。だからこそ、ハタハタたちを運んでくる祝祭の海が待ち遠しい。

写真・文:奥山淳志