はらぺこ本屋の新井
夫の醤油小皿に絶望する

夫の醤油小皿に絶望する

「食」にまつわる気持ちの溝は、埋め合わせ難い。だからこそ、些細なことがどうしても気になること、ありますよね。

「磯丸水産」という24時間営業の居酒屋を、気付けばどこの街でも見かけるような気がする。職場から近い日比谷の店舗では、何度かランチに手頃な海鮮丼を食べた。しかし、磯丸といえば、グランドメニューにある、雲丹クリームパスタ899円(税別)であろう。鶏らー麺や蟹チャーハンとメニューに並んでいるので、一見、よくある〆麺に見える。だが、信頼するグルメブロガーの勧めで、飲み会のときに食べてみたら、すっかりはまってしまった。

取り分ける前提なのだろう、量はたっぷり、味はこってり、ジャンクではあるが、確かに雲丹の味もする。しょっぱいだけの焼きうどんで〆るより、100倍幸せなのだ。

私は雲丹が大好きである。いくらの次に好きなくらいだ。雲丹という食材が、本当は安くないことは知っているが、なぜか安く食べられる雲丹にも「うわぁい!」と喜んでしまうくらい好きだ。

しかし、「雲丹が好きなんだって?僕も大好物!美味しい店連れてくよ!」とキラキラした目で誘われ、雲丹に負けてフラフラ付いていった先が磯丸水産だったら。もちろん雲丹クリームパスタは、1人で1皿食べる。「雲丹、美味しいね!」と言い合うだろう。だけど「この人にはきっと、何かを永遠にわかってもらえない」という気になるような気がする。

貘の耳たぶ』は、産んだばかりの子を、母自ら、他人の子とすり替えるところから始まる。繭子は病院でひとり、不安だった。出産そのものも、これから自分の子を育てていくことも。しかしパイロットの夫は仕事が忙しく、はなから立ち会う気もなければ、なかなか見舞いにも来ない。

ようやくふたりきりで会えたのが、「お祝い膳」の日だった。帆立貝とアボカドのカルパッチョ仕立て、ローストビーフ、天ぷら、鯛の兜煮にお寿司。まるでレストランのようだが、ここは病院のラウンジだ。普段は病室で食事を摂るが、この日は特別に、豪勢な料理を親族と味わえるのだ。

心が華やぐはずの食事で、しかし彼女はまた不安を増幅させる。寿司に付ける醤油皿に残った、醤油の量で。

醤油を吸いまくって茶色く染まったネギとろ軍艦を美味しいと感じる自分と、まだなみなみと小皿に醤油が残る夫との、育ってきた環境と感覚の違い。自分のような人間が子育てをしたら、醤油の味しかしない寿司をありがたがる人間にしてしまうのではないか。

繭子は思うのだ。「この人にはきっと、何かを永遠にわかってもらえない」と。

今回の一冊 『貘の耳たぶ』芦沢 央(幻冬舎)
自ら産んだ子を自らの手で「取り替え」た、繭子。発覚に怯え、育児に悩みながらも、息子・航太への愛情が深まる。一方、郁絵は「取り違えられた」子と知らず、息子・璃空を愛情深く育ててきた。それぞれの子が4歳を過ぎたころ、「取り違え」が発覚。元に戻すことを拒む郁絵、沈黙を続ける繭子、そして一心に「母」を慕う幼子たちの行方は…。

文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子

新井 見枝香

新井 見枝香 (書店員・エッセイスト)

1980年、東京生まれ下町(根岸)育ち。アルバイト時代を経て書店員となり(その前はアイスクリーム屋さんだった)、現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。独自に設立した文学賞「新井賞」も今年で13回目。著書に『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)など。