ところで、野球はお好きですか?
「高校野球はわりと好きですけどね。球場まで行って応援して、っていうのはないですね。近すぎて。おやじのほうが、わりとプロ野球も観たりしてます。テレビで」
「桔梗堂」三代目の高尾哲司さんは照れ笑い交じりに言うのだった。そう、あくまでも「球宴」は、野球好きが高じて考案されたお菓子というわけではないのである。開業以前にすでに存在した球場から広がる、この町の色を映したお菓子なのだった。
私のような、よそから来た者にとっては、甲子園、といえば球場がイメージされがちだが、地元の人にとっては住んでいる町そのものが、甲子園なのである。とはいえ、この地名は球場に因んだものではある。
高校野球が開催される間と、帰省する人が多いお盆と年末が、「球宴」のよく売れるとき。「桔梗堂」におじゃまして話を聞かせてもらったのは、センバツが無観客試合になると決まった翌日だった。帰京してこの記事を書いているいまは、開催すら中止と決まってしまっている。「もう~くやしいわぁ。残念ですわぁ」と言っていた哲司さんはどんなに無念だろう。
野球を愛する皆様、もしよろしければ、甲子園球場のお近くまで行かれることがありましたら、ぜひ「桔梗堂」のお菓子を、おひとつどうぞ。
甲子園球場が完成したのは1924(大正13)年。その年の干支が甲子だったことから名付けられた。
「東西自慢話」という、タイトルどおり、関東と関西の名物を比べ合うという趣向の古書の中に、甲子園球場の竣工当時の雰囲気をよく映していると思われる文章があったので、ここに引いておきたい。
「甲子園は大正13年に時の阪神電鉄の重役山口さんという人が車内の反対を押し切って甲陽枝川(※原文ママ)の河原に5万人を収容出来る球場を建設した。当時の人々は出来上った怪物のような建物を仰ぎ見て感嘆するよりも唖然としてここで球投げをするというのだが、そんなに見物人が集まるであろうかと疑い、阪神の重役の中でも建て枯しにならなければよいがと心配したものもあるという」
嬉しいことに、それは杞憂だったとは、いまではみんなが知っている。
この球場を本拠地とする球団「大阪タイガース」=今の阪神タイガースは、日本で2番目のプロ野球チームとして1935(昭和10)年に結成された。甲子園の町では、道路の黄信号を見ても、あっ、タイガース!と、はっとしがちで、その色に与えられた他の意図をつい失念してしまう私。
ところで、はじめて私が甲子園球場で野球の試合を観たのは2019年の4月30日、折しも平成最後の日の、阪神タイガースv.s.広島東洋カープ戦だった。カープファンの夫に同行し、球場に向かう阪神電車の車中、タイガース帽をかぶったおじいさんが「今日はなにかもらえるらしい。卒業証書みたいなの」と、連れに話しているのが聞こえた。
卒業証書?
球場の入口で、たしかに一枚の紙を手渡された。「平成最後の一戦 観戦証明書」とある。レフト外野指定席に腰掛けてみると、周りにはカープの赤色とタイガースの黄色が入り乱れていた。
遠くまで響かせる応援歌そして野次のほかにも、連れと交わし合う感想や感嘆、呆れ声が球場を満たしていても、目を上げると見える六甲山の稜線に目を凝らしてみるあいだは胸中が静まる。
試合結果は8‐3で、タイガースが勝利した。夫は、勝敗は気にしないと幾度も繰り返していたわりには、降り出した小雨の中を傘を差して歩く足取りはいつもより少し早く、負け試合の余韻を振り払おうとしているようでもあった。
パ・リーグ派の私も、勝敗は別として、思うところがあった。この日を境に私はそれまで、精神衛生上よくないなと頭では思いつつなんとなく続けていたひとつの習慣を、絶った。
なにを?
それは、SNS上でのエゴサーチ。
クリアファイルに挟み、うちの野球本棚に入れてある観戦証明書は、同じ車両に乗り合わせたおじいさんの言どおり、私にとってはエゴサーチ卒業証書となっている。
平成あるいは令和という時代に特別な思い入れがあったから、その日でやめたというわけではない。どちらかと言えば西暦派だし。甲子園球場の一隅で野球を観つつ、ポケットに入れていたiPhoneになんとなく触れてみたとき、フリーランスとして自分の名前を看板にして働いている以上は仕事のひとつととらえて定期的にやらなきゃねと思っていたことが、iPhoneの中で自分の影を探すような行為が、不意にとても虚しいものとして感じられたのだった。清々しく、やめて、今に至る。
振り返ってみると、甲子園にはやっぱり魔物が棲んでいるんだ、そう思うしかないのだった。
遠くない将来、満員の甲子園で、隣合うファン同士、平和に押し合いへし合いしながら野球を観たいし、また魔物にも会いたい。
おしまい。
文:木村衣有子 写真:佐伯慎亮