お菓子民俗学
たばこ煎餅はずっとある。

たばこ煎餅はずっとある。

たばこ煎餅が店先に並ぶまでを見ていると、ほとんどが手作業だと知る。生地の仕込みは力仕事で、最終的には機械で焼き上げるけれど、その場に付きっ切りで、一枚一枚の出来を確かめていく。町が栄えた証は、こうしてあの頃から今へ、そして明日へとつづいていく。

機械だけに頼らず、手仕事で焼き上げる。

渡邊紀彦さん
「たまのや」三代目の渡邊紀彦さん。たばこ煎餅を焼くのは週に2日ほど。開店と同時に仕込みを始め、午前中いっぱいかけて1000枚以上を焼き上げる。

店の裏手にある工房にて、仕込みのところから見学させてもらう。
全卵、砂糖、蜂蜜を合わせてボウルに入れ、製菓用ミキサーでかき混ぜる。そこに小麦粉、水、溶かしバターを加えたら、ミキサーではなく紀彦さん自身の手でぐわーっと生地を混ぜ合わせ、全体を馴染ませる。「お菓子屋は力仕事だから」と言う所以。
さて、これで「たばこ煎餅」およそ1200枚分の生地の出来上がり。

生地
なめらかに仕上がった、たばこ煎餅の生地。甘い香りが工房全体に漂う。

「昔は鉄板の温度を測るのも勘で、“カンピューター”だったんですけど、今はいい機械があるので」などと話しながら、「たまのや」三代目の渡邊紀彦さんは、生地を、たばこの葉の形をした焼き型に流し入れる。型は円卓のようにぐるぐるまわり、均一に火が通っていく。
この、第一印象そのままに名付けるならば「たばこ煎餅マシーン」は、3年前に新調したもので、たい焼きや人形焼などの焼型もつくっている愛知県のメーカーが「手焼きみたいに仕上がるように」こしらえてくれたものである。

煎餅
機械といっても全自動というわけではなく、一回一回、焼き面に油を塗ったり、焼き上がったら、一枚一枚、手に取って仕上がり具合を確認する。
煎餅
焼き上がりは、こんな感じ。葉たばこを模した形(と言っても葉たばこを見たことがある人がどれくらいいるかわからないけれど)に、こんがりとした焼き色が美しい。

焼き上がったたばこ煎餅は、細長い木の板の上に一枚ずつ並べていく。板の中央がほんの少し凹ませてあるのは、煎餅を反らせるため。葉っぱらしいかたちをきれいに出すため。2列、3列と煎餅が並ぶ頃になると、小さな工場は蜂蜜の甘い香りでいっぱいになる。
仕込んだボウル一杯分の生地がすべて煎餅として焼き上がるまで、1時間半。

煎餅
焼き上がると、穏やかなに凹んだ木の板の上で熱を取る。ちょっとのことで、たばこ煎餅のかたちは変わってしまう。

実は紀彦さんは、父からこの煎餅のつくりかたを直接習ったことはない。上京して洋菓子修業をし、この店に帰ってきてからも、しばらくはケーキをつくっていたのだという。「たばこ煎餅」づくりを担うようになったのは、父の没後だった。「軽い食感」になるようにレシピを工夫したそうだ。

煎餅
出来上がり。ほのかな甘さをまとい、さっくりとした食感。煎餅というよりはサブレの方がイメージしやすいかもしれない。

煎餅を板の上に並べる作業を手伝っていた女の人は、少し昔のこのあたりの風景について話をしてくれた。生家はかつて葉たばこ農家で、在来種である松川葉を栽培していたという。子供時代、葉を収穫して乾燥させる時期はちょうど学校の夏休みで、家の手伝いに明け暮れた。「夏休み明けに色白なのは葉たばこ農家の子供。プールに行くのは雨の日だけで」と、懐かしそうに、ほんのり寂しそうに微笑んで。

「昔は、畑というのは煙草畑しかないくらいでした。今は、どこに畑があるか聞かれても思い出せないくらいです」

葉たばこ畑
田村市役所産業部観光交流課の渡邊友香里さんのお勧めの葉たばこ畑の風景。場所は七郷(ななごう)で、すべてバーレー種。

煙草は遠くになりにけり。

煙草及び、葉たばこ栽培の歴史をおさらいしておきたい。
嗜好品として、煙草が日本に持ち込まれ、愛好されるようになったのは江戸時代のことである。当初は、乾燥させた葉を刻み、キセルに詰めて吸うのがスタンダードだった。
その、キセルで煙草を吸うという所作は、落語や歌舞伎の演目の中に今も活きている。ちなみに、旧船引町でかつて主に栽培されていた「松川葉」はこの刻み煙草用の葉のひとつである。
明治になると、吸うのに火以外の道具は必要としない、現代のスタンダードである紙巻き煙草が広まりはじめる。大正時代の末には、紙巻き煙草が刻み煙草の製造量を抜き去っていく。

葉たばこ畑
たまご、蜂蜜はそれぞれ半量は地元産のものを使っている。小麦粉以外ははすべて国産の材料でつくっている。

さて、旧船引町には、この頃、線路が引かれ、駅が置かれ、そして「葉煙草取扱所」が、今は田村市役所がある場所に開かれた。つまり「たまのや」の目と鼻の先。ここは葉たばこを栽培する人たちと葉たばこが集まる場所となっていく。
少し時代を戻して、1898(明治31)年には「葉煙草専売法」が制定されている。このときから、生産された葉たばこは国が買い上げるようになった。それから程なくして、1904(明治37)年には、煙草の製造・販売まですべてが国の管理下に置かれることになる。
ちなみに「未成年者喫煙禁止法」が施行されたのは1900(明治33)年のこと。それから長いこと、煙草は、大人の社交のための小道具として、日常にあった。

パッケージ
2019年の秋、「たまのや」はパッケージを一新。船引の名を入れ、メッセージも記した。

「今日も元気だ たばこがうまい!」とのてらいなく明るい惹句は、1957(昭和32)年、煙草屋の店頭に貼られたポスターにあしらわれたものだ。この頃は、煙草は贈答品としても世間に馴染んでいた。
はじめて「吸いすぎに注意」との文言がパッケージに入れられたのは、それから十数年後の1970(昭和45)年のことである。しかしこの頃、旧船引町の葉たばこ生産はピークを迎え、耕作面積日本一を誇っていた。
紀彦さんの幼時の風景はといえば「朝の暗いうちから農家の人たちが家族中で来て、乾燥させた葉たばこをそこで買い上げてもらうわけ。昔は荷車を引いてきたんだよね。一年分いっぺんにお金をもらうから、帰りにみんな買い物をしていって、すごく賑やかだった」という。
また、紀彦さんは、少し前まで船引町には「たばこ神社」もあったのだと教えてくれた。
神社が姿を消す、というのはよっぽどのことだと思われる。神様として煙草を祀った人たちも、こんなに急に煙草が吸われなくなるときが来るとはよもや思うまじ。

道具
「たまのや」は歴史ある和菓子店。ずっと使い続けている道具がいまも現役で残っている。
和菓子
「たまのや」ではたばこ煎餅以外にも饅頭や団子、柚餅子やどら焼きなどの銘菓が揃っていて、町の和菓子店としての役割を果たしている。

1985年に専売公社が民営化され、1987年に煙草の輸入関税が廃止され、国内の葉たばこの生産はいやおうなしに落ち込む。旧船引町の「葉煙草取扱所」も2004年に閉鎖され、跡地には市役所が建った。紀彦さん自身もずいぶん前に煙草をやめたという。この話を書いている私だって吸ってはいないのだ。
でも「たばこ煎餅」はまだある。煙草が大衆の嗜好品だった証として。

夫妻
「たまのや」を切り盛りするのは、三代目の渡邊紀彦さんと文子さん夫妻。変えていくもの、残していくものを見極めながら、次世代へと店を繋いでいく。

店舗情報店舗情報

玉野屋菓子舗
  • 【住所】福島県田村市船引町船引字畑添116
  • 【電話番号】0247‐82‐0227
  • 【営業時間】8:00~19:30
  • 【定休日】第1、3日曜
  • 【アクセス】JR「船引駅」より3分

番外編:福島県田村市のお人形様のこと。

福島県田村市にはお人形様と呼ばれる巨大な人形が祀られている。芦沢地区の屋形、朴橋と堀越の明石神社内の3ヶ所でお人形様の姿を見ることができる(表情はすべて違っている)。どんな理由で祀られたのかは定かではなく、文化5(1808)年には存在していた記録が残っているという。毎年、春には衣替えが行われる。「たまのや」でたばこ煎餅を買い求め、葉たばこの畑を見た後は、お人形様めぐりも一興。

文:木村衣有子 写真:阪本勇

木村 衣有子

木村 衣有子 (文筆家)

1975年、栃木生まれ。主な守備範囲は食文化と書評です。「木村半次郎商店」主宰。近著は食書評エッセイ集『味見したい本』(ちくま文庫)。埼玉西武ライオンズファン。