はらぺこ本屋の新井
過去の男と、カゴの中身

過去の男と、カゴの中身

買い物カゴには、その人の食生活が詰まっている。レジに並ぶ新井さんも、レジを打つ店員も、ある小説の主人公も、その中が気になるご様子。

最寄りのスーパーでレジを打っている男の子は、たぶん私のことが好きだ。

別のレジで会計をしていると、全然溜まっていないのに、返品を集めに来たり、袋詰めを終えた私からカゴを受け取ろうと、近付いてきたりする。

思いを伝えたいとか、付き合いたいとか、そういうんじゃないのだろう。ただ、自分のレジに並んでくれたらラッキー。言葉を交わせたら、スキップして帰れる。接客業ばかりしてきた私にも、そういう経験はあった。私なんぞが、そのちょっとした幸福に役立てるならと、私なりに気を使う。

見切り品や総菜はできるだけ買わない。4分の1にカットされた白菜、ばら売りの長ねぎ、鶏の胸肉、アーモンドミルク、たまにはアルコール度数3%の缶チューハイ。カゴの中身は、どう見てもひとり暮らしの、ちゃんと生活している女性のソレだ。私は私のカゴに満足し、彼は夢を膨らませる。

ジュンパ・ラヒリの小説『わたしのいるところ』は、小説家の村田沙耶香さんに勧められ、手に取った。彼女もコンビニで長く働いていたから、お客の生活スタイルを、受け取った品物で散々想像してきたのだろう。コンビニで働くことが楽しいと言っていた。私は本屋だが、その気持ちはとてもよくわかる。

彼のカゴには、明らかに自分用ではないものが、たくさん放り込まれていた。牛乳と豆乳、炭酸入りの水と炭酸なしの水、バターとジャム。トーストに両方塗ることはあっても、ひとり暮らしで、同時になくなるなんてことは、そうそうない。シリアルは子供用だろうか。朝はめいめいが食べたい物を用意してもらえる、優しくて愛情溢れる家庭。「わたし」には作ることができなかった食卓。スーパーでばったり会った「わたし」は、ほんの少しの買い物だけを済ませ、その大量の品物を袋詰めする彼を待ってしまう。

その既婚の男友達は、かつての恋人だった。だからどう、ということはない。「わたし」の空っぽの冷蔵庫に、遠い記憶が塩漬けにされているだけだ。だからこの物語は、何も起きない。起きないから、物語なのである。

思いを伝えたいとか、今さらやり直したいとか、そういうんじゃない。ただ、こうしてばったり会えたことは、代わり映えのない日々にもたらされる、一かけの甘いチョコレートみたいなものだ。

今回の一冊 『わたしのいるところ』ジュンパ・ラヒリ(新潮クレスト・ブックス/新潮社)
歩道で、仕事場で、本屋で、バルコニーで、ベッドで、海で、文房具店で、彼の家で、駅で……。ローマと思しき町に暮らす45歳の独身女性が語る、身になじんだ彼女の居場所とそれぞれの場所にちりばめられた彼女の孤独、その旅立ちの物語。ピュリッツァー賞受賞作家が綴る長篇小説。(訳=中嶋浩郎)

文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子

新井 見枝香

新井 見枝香 (書店員・エッセイスト)

1980年、東京生まれ下町(根岸)育ち。アルバイト時代を経て書店員となり(その前はアイスクリーム屋さんだった)、現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。独自に設立した文学賞「新井賞」も今年で13回目。著書に『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)など。