長野県上田市にある「拉麺酒房 熊人(くまじん)」は、マニアからも一目置かれるラーメン店。素材選びにも一切の妥協がなく、店主が心底惚れ込んだ物だけを厳選して使っている。今回は、「熊人」で使っている特選調味料のお話。
「拉麺酒房 熊人(くまじん)」のラーメンは引き算のラーメンだ。スープに使う材料も、鶏とサバ本枯れ節、宗田本枯れ節の3種類のみ、と驚くほど少ない。火にかける時間も最小限。短い時間で、本当においしいにごりのない旨味だけをさっと抽出する。
さらに特筆すべきはたれ。一般的なラーメン店では、たとえば醤油だれだったら複数の醤油やその他の調味料をブレンドし、スープを補強する目的で多くの乾物を合わせるが、この店は違う。いわゆる“醤油だれ”というものはなく、醤油を丼に垂らすだけ。強いていえば、そこに少量のみりんを加えて“たれ”の代わりとしている。
「うちは醤油に合わせてスープを炊いているので、たれはいらないんです」と店主の小合沢健(こあいざわたけし)さんは胸を張る「それぐらい素晴らしい醤油を使っている」と。
小合沢さんに今回の取材をお願いした時に、「大久保醸造さんにも行ってみますか?」と聞かれた。「大久保醸造店」といえば、名だたる蕎麦屋や料理店も使う業界では有名な醤油蔵。そういえば、知り合いのラーメン店主も、この蔵で造られている超稀少な醤油が手に入った!と小躍りしていたっけ。
でも、店まで片道1時間、仕込みの取材だけでも5、6時間はかかる。さらに、店のある上田市から松本市にある「大久保醸造」までは車で1時間ほど……。正直、一瞬迷ったけれど、そんなすごい蔵に行ける機会はそうそうない。それに、小合沢さんがあまりにもさらりと聞くものだから「ぜひお願いします」と思わず答えてしまった。
一路松本へ。蔵へと向かう道中、隣で車を運転する小合沢さんに、なぜ「甘露醤油」を使うようになったのか聞いてみた。
「大久保醸造さんの醤油は、材料や製造にとにかくとことんこだわっているんです。それまで使っていた醤油も『旨い!』と思って使っていたけれど、『甘露醤油』は別格。醤油を醤油で仕込む再仕込み醤油なのですが、味も値段も大吟醸クラスです(笑)」
甘味があって、尖りのないその味わいに、「これだけでかえしになる」と小合沢さんは確信したそう。
「それまでは、うちの醤油だれにもだしや砂糖を使っていたのですが『この醤油にはそんな物は必要ない』と痛感しましたね。醤油も味噌も、一流の物はいじる必要がないんです」
小合沢さん曰く、醤油も味噌も調味料ではなく“素材”。素材の味を引き立てるべく極力シンプルな味づくりに徹するという信条は、たれにおいても例外ではない。
蔵に着くと、会長の大久保文靖さんが出迎えてくれた。「蕎麦屋なら知らない者はいない」「紹介がないと使えない」などと言わしめる幻の醤油とは、一体どんなすごい醤油なんだろう?前のめりになって会長に質問をすると「昔から地場で造っていたものを普通に造っているだけだよ」と拍子抜けするような回答が返ってきた。
でも、よくよく聞くとその“普通”がすごい。
聞けば、国産大豆の自給率は5%ぐらい。その5%で、味噌も醤油も納豆も油もまかなうとなると、国産大豆だけで醤油を造ることがいかに贅沢なことかが見えてくる。
「地元に限らず、いい農家さんがいると聞けばお願いをしているよ。特に、篤農家として知られる青森県の福士武造(ふくしたけぞう)さんが造る大豆は別格だね。洗った時の面構えが違う。身がしっかり詰まっているから洗っていても豆が浮かんでこないんだよ」
大豆は長野県よりも北の物を使うと決めている。
「小麦は上田産や松本産の物、塩は国産、沖縄のシママース。昆布やカツオ節、椎茸も全部決まったところから仕入れているんだ」
厳選した国産素材を木桶で仕込み、天然醸造醤油を造っている。
中を案内されて驚いたのは、工場がとても近代的で、想像以上に大きかったということだ。創業100年を超える天然醸造の老舗蔵――しかも生産量は決して多くないと聞いていたので、どれだけこぢんまりとした蔵なのだろうと思っていたら、案内された工場の建物はとても背の高い3階建てだった。
「何で3階建てにしたかって?それは、麹を運ぶのが大変だから」
長い階段を上り、ようやくたどり着いた3階の部屋で、大久保会長が教えてくれた。
「3階は原料処理をする部屋。この部屋で大豆を蒸したら、真下にある2階の麹室に“落とす”んです」
続いて案内をされたのが、2階の麹室。先ほどの部屋で加工処理された大豆や小麦はこの部屋に“落ちて”くる。部屋の中に置かれた大きな銀色の機械は大久保さんの特注品だ。その他の部屋の多くの機械もそう。醤油造りの全てを分かっている職人だからこそ、「あったらいいな」を形にできるという。大久保さんの知恵と発想力の賜である。
できあがった麹はさらに落とされ、今度は蔵のある1階へ。完成が近づくにつれて下へ下へと下りていく。すべては熟練の技を持つ大久保さんによる発明。こうした柔軟な発想もおいしい醤油造りにひと役買っているに違いない。すべては旨い醤油造りのため。
それにしても、どの空間も清潔で、カビ臭いところがひとつもない。
「醤油づくりの主役は微生物。マイナスの働きをする雑菌はいらないので清潔を保つことには心を配っています」
なんと、蔵の壁や床下には何十tもの大量の炭を埋め込んでいるそう。脱臭効果だけでなく、湿気も吸収してくれるので、カビの発生そのものも押えてくれるのだとか。
基本の“醤油拉麺”に使う「甘露醤油」の熟成期間は3年、“淡口醤油拉麺”に使う「紫大尽(むらさきだいじん)」の熟成期間も1~2年。
「醸造は、時間の味。醤油は味1年、香り2年、色3年と言ってね。手を尽くし、じっと待った者だけが旨い物を食べられるんですよ」
また、「早くできる物は“塩慣れ”がない分、しょっぱく感じる」とも。
「『甘露醤油』に尖りがないのはそのためです。同じ塩分濃度で造っても、醸造期間の長い物はまろやかな味に仕上がるんですよ」
作業を効率化するために便利な機械を取り入れてはいるけれど、味づくりに必要な時間や手間ひまは決して省略しないのが大久保さんの信条だ。
「だからどんなに機械を導入しても、結局、人の手でできる量しか造れないんです」
「大久保醸造店」では、機械化が進んだ現在も、時間がつくる昔ながらの手造りの味を守り続けていた。
実は、仕込み作業の関係で2日にわたって訪れた「熊人」の取材。2日目の取材日が決まるや否や、小合沢さんから再びあの質問を再び投げかけられた。
「せっかくなんで大桂(だいけい)商店さんにも行ってみます?」
これはもう完全にデジャビュだ。その日も片道1時間かけて「熊人」へと向かい、5、6時間かけて取材をするスケジュール。隣町の上田市丸子地区にある「大桂商店」へは店からさらに30~40分はかかる。ためらいがなかったと言えば嘘になるけれど、相手は幻の大吟醸味噌。
「はい!もちろん、行かせていただきます」
この味噌のすごいところは、長野県でも上田市周辺でしか栽培されていないという幻の地大豆“こうじいらず”のみで仕込んでいるところ。
「とにかく粒が大きいんですよ。超特大の3Lサイズ。市場に出回っている大豆の中で、これ以上のサイズの物は恐らくないでしょうね」と社長の小林大史さんが教えてくれた。麹がなくても味噌になると言われるぐらい“こうじいらず”の糖分は高い。
「ホクホクとしていて、煮上がりは栗のように甘いんです」
この“こうじいらず”が幻の地大豆と言われている所以は、採れる地域が限定されていることと、とにかく収穫量が少ないことに起因する。
「在来種なので、地元以外ではつくっていないし、量が極端に少ないので市場にもほとんど出回りません。契約栽培をしていないとまったく手に入らない年もあります」
先のとおり、国産大豆の自給率はわずか5%。長野県産大豆はそのうちのわずか1.5%しかない。さらに上田市周辺で採れる量といったら……。いかに稀少な大豆であるかが分かってもらえるだろうか。
「大桂商店」では美ヶ原の麓、上田市武石地域の農家とタッグを組み、味噌造りに向くように毎年工夫してもらいながら、確保している。
「さらに収穫適期が1~2週間しかなく、そのタイミングを逃すと実が落ちてしまうんです。たとえば、長野県が推奨している他の品種の物は適期が長いので他の農作業の合間に収穫できるのですが、“こうじいらず”の場合はそうはいかない。タイミングがずれるだけで収穫量が半分くらいになってしまうんです」
収穫だけでなく、「畑に蒔く時期も梅雨の時期。でも蒔いてから1週間は雨が降ったらダメ」というから、なんともワガママな大豆である。
「その分、味は抜群。他の大豆とは異次元の甘さです」。
信州味噌は米麹で造るが、麹に使う米も、地元上田市産を中心とする長野県産の物を使っている。
「味噌の味を決めるのは豆の出来と麹の出来。機械を使えば簡単に麹はつくれますが、繊細な温度管理と手入れをすることで極上の麹に仕上がるんです」
蒸かした米に麹菌を付けて48時間温度管理。その間、手で触りながら、温度を確かめ、均等に仕上がるように手を掛けていく。
「奏龍大吟醸 雅」にはこの米麹を通常よりも3割多く仕込んでいる。
「麹をたくさん入れる分だけ塩分を控えられるので、麹の甘味と豆の旨味が感じられる味噌に仕上がります」
造り手である小林さんも自信をのぞかせる。
「スーパーの最上級ランクの味噌を町の高級鮨店と例えるならば、品評会に出すレベルの味噌は銀座の『久兵衛』。稀少な材料で手間ひまかけて造る“奏龍大吟醸 雅”はそれ以上とも言えるでしょうね。そもそも大量生産できないので、スーパーやデパートには並びませんが(苦笑)」
あえて、そこを狙っている「大桂商店」も「熊人」同様、変態な味噌屋と言える。
厳選素材、手造り、天然醸造、無添加とすべて揃ったこの味噌は、まさに“大吟醸”の名にふさわしい逸品だった。
――つづく。
文:松井さおり 写真:平松マキ