「拉麺酒房 熊人(くまじん)」は長野県上田にある人気店。県内産の特選素材を使い、手間ひまを惜しまず丁寧につくられたラーメンには、店主の並々ならぬ想いが込められている。第3回目となる今回は、熱々の想いが詰まった“スープ”のお話。
「拉麺酒房 熊人(くまじん)」のスープは驚くほどシンプルにつくられている。材料は鶏とサバ枯れ節、宗田枯れ節……以上!
「素材ひとつひとつの存在感を高めようと思ったら、ここまでシンプルになりました」と、店主の小合沢健(こあいざわたけし)さんが、スープにかけるストイックなまでの想いを話してくれた。
以前は、長ネギの青い部分をスープに入れていたが、今はそれさえも使っていない。ネギの甘さや香りすらも“邪魔”と感じるようになったからだ。それぐらい、「熊人」のスープの味は研ぎ澄まされている。
使用する鶏素材も、ハーブを食べて育った“信州ハーブ鶏”の首付き胴ガラとモミジのみ。チャーシュー用の豚肉をはじめ、麺を打つ小麦粉やタレに使う調味料まで長野県産を貫く同店では、ガラ類も県内産と決めている。
「せっかくのだしが逃げてしまうので、下処理や下ゆでは行いません」
地面に直接触れるモミジの“爪”こそ事前にきれいに取り除くが、それ以外は、店に届いた状態のまま寸胴鍋に移される。「新鮮な状態で届きますし、若鶏なのでアクもほとんど出ないんです」。
火にかける時間はわずか2時間。たった2時間で、鶏素材を寸胴鍋から抜いてしまう。
「身が若いので、これ以上煮ると崩れてスープが濁ってしまうんですよ」
まだまだだしが取れそうなのに、なんだかもったいないなぁ。
鶏ガラ類を取り出した寸胴鍋に次に投入するのは節類。同店では、別取りした動物素材と魚介素材のスープを後で合わせるダブルスープではなく、鶏スープで直接魚介のだしを煮出してつくるシングルスープの手法をとっている。
「最初は、蕎麦やうどんのつゆで使う“和風だし”をイメージしていたのですが、それだけではやはりインパクトに欠けてしまうので鶏の味を軸に組み立てています」
でも、ラーメンの定番だし素材である煮干しを使わないのはなぜ?
「煮干しの味って単純でしょう?軸に据える鶏の味も単純なので、複雑な味の物を組み合わせなければスープ全体が単調になってしまうと考えているからです」
そのため、小合沢さんは、深く熟成された味わいが出せる高価な本枯れ節を合わせることを決めた。「煮干しは家庭料理で使うイメージ。ここは“料理屋”なので、煮干しは使わないと決めているんです」とも。
スープを炊く小合沢さんに、「そういえば」とずっと気になっていた店名の由来を聞いてみた。今までも何度か尋ねた気がするけれど、きちんと教えてもらえたことはなかった気がするからだ。
「“熊”は中学の時の私のあだ名。腕の毛が濃かったので、そう呼ばれていました(笑)。まぁ、“熊”はオマケみたいなもんですね」
じゃあ、“人”は……?
「『熊人』の“人”は魯山人の“人”。『まだまだおこがましい』と、周囲にはずっとその意味を伏せてきましたが、最近になってようやく解禁してもいいかなと思えるようになりました」
先日の京都旅行で、遂に憧れの人のお墓参りが叶ったそう。
「『お名前を使わせてもらっています』と、やっと墓前に報告することができました。オープンから15年もかかっちゃいましたけど」
小合沢さんが頑なまでに“料理”にこだわる理由が垣間見えた気がした。
素材ひとつひとつの味を際立たせるべく、究極のシンプルを貫く「熊人」のラーメン。客席でラーメンを啜っていると、隣のテーブルから「ああ、おいしい」と、ため息交じりでつぶやくお客さんの声が聞こえてきた。スープを飲んで、思わず感想がこぼれてしまったのだろう。
「おいしいね。優しい味がする」
「香りがすごくいいね」
そんな会話が続いている。丁寧につくられた料理って、食べる人をこんな風に笑顔にするんだな、と改めて感じた瞬間だった。
実は、同店ではスープを炊き終わった後の鶏ガラ素材を使って鶏白湯を炊いている。
「なるほど、だから2時間しか炊かないのね」と思うのは早合点というもの。二次利用する素材はごく一部だけで、結局残りのほとんどは廃棄してしまうからだ。
「スープに使ったモミジはすべて再利用しますが、鶏ガラの大半は捨てています」
全部の材料を使えば、さぞかし濃い鶏白湯ができそうなものだけれど、濃度に頼るだけの野暮なラーメンを熊人先生はよしとしないのである。
大切なのは味とバランス。
「モミジに対して鶏ガラの量が決まっているので、もしも残っている鶏ガラをすべて使おうと思ったら、さらに倍量の基本スープを炊かなければなりません。そうするとまた同じ量の鶏ガラが残ってしまって……」
あらら、話が最初に戻っちゃった。
鶏白湯を炊く際に加える水分は、先ほどできあがったばかりの“基本スープ”。水ではなく、スープでスープを炊いてつくる、贅沢な“再仕込みスープ”というわけだ。1杯分の鶏白湯をつくるのに、実に2杯分の基本スープを使用する。
「旨味調味料を使わない分、スープを凝縮させてあげないとおいしさが表現できないんですよ」
焦げないように何時間も寸胴鍋を見守り、ギューッと搾ってようやく10杯分のスープが完成する。嘘でしょ。こんなに苦労したのに、たった10杯しかつくれないなんて!
「嫌になっちゃいますよね。だから全然儲からない」と隣で小合沢さんはぼやいていたけれど、その顔はちっとも嫌そうには見えなかった。
ポタージュのようにクリーミーなスープは、濃度や粘度で力任せに仕立てたものとはまるで違う。濃厚で力強い旨味を湛えているのに、その飲み口はとても優しい。もちもちとした中太麺との相性もよく、あっという間に丼は空になってしまった。
こんな風に書くと、小合沢さんのことをお堅い職人さんのように思われるかもしれないけれど、真面目一徹で終わらないところもまた、熊人先生が周囲から“変態”と呼ばれる所以。型に縛られない、柔軟な発想力もあわせ持っている。
「新しいアイデアが頭の中に“降りて”きた時は、限定メニューとしていて提供しています。いまは『イチゴ牛乳拉麺』を出しているので、ぜひ食べていってください」
イ、イチゴ……牛乳!?うーん、食べてみたいような、食べたくないような……。
聞けば、フルーツを使ったラーメンは今回が初めてではなく、常連さんの間でも度々話題になってきたのだとか。
「これまでにもミカンやブドウ、リンゴ、モモを使ったメニューを出したことがあります」
おっかなびっくり、渦中のスープをひと口。牛乳の味と共にラズベリーの酸味とイチゴジャムの甘みがみるみる広がっていく。ファーストインプレッションは完全にデザート。でも、ほどよい塩麹の塩気もあるし、当然のことながら麺も入っているし。やっぱり、これはラーメン……なのか?
食べ進めていくうちに焼肉の味がどんどん伝わってきて、脳が少しずつラーメンであることを認識し始めた。
「今回のポイントはローズマリー。これがないと、味が単調になり、途中で飽きてしまうんですよ」
確かにローズマリーがマイルドなスープのフックになっている。これは初体験だけど、クセになる味!
ちなみに、ミカンとブドウの時はそれぞれ果汁100%のジュースを使ったつけめん、リンゴの時はリンゴ味噌ラーメン、モモの時は生クリームとモモをミキシングしたスープを合わせて提供したそう。
「どうですか?果物だって、こうやって食べればラーメンのだしになるでしょう?」と、にやけ顔の小合沢さん。きっと「この食材をラーメンに使ったらどうだろう?」って常に考えているんだろうな。それにしてもフルーツまでラーメンに仕立ててしまうとは。この店主、やっぱり“変態”である。
――つづく。
文:松井さおり 写真:平松マキ