長野県は上田市にある「拉麺酒房 熊人(くまじん)」の店主は、同業者も“変態”と認めるほどのマニアックな人物。麺はもちろん調味料に至るまで、そのこだわりは半端ない。今回は、ラーメン店ではまだまだ珍しい自家製粉のお話。
「拉麺酒房 熊人(くまじん)」が自家製粉を始めたのは、2011年のこと。「生産者の方から“伊賀筑後オレゴン”という幻の小麦をわけてもらったんですよ」と、店主の小合沢健(こあいざわたけし)さんがそのきっかけについて話してくれた。伊賀筑後オレゴンといえば、かつて「日本で一番おいしいうどん粉」ともてはやされたこともある三重県発祥の準強力粉。信州でも、大正期から戦後にかけて善光寺平から上田までの千曲川の沿岸で生産されていた歴史がある。
「ただ、コンバイン渡しだったので、自前で石抜き機(精麦後に混入している小石や異物を選別し、除去する機械)や唐箕(とうみ/脱穀後、風力で籾殻や藁くずを選り分ける機械)、研磨機を購入する必要がありました」
まさかラーメンづくりのために農業機械を購入するなんて!それでも地産地消を唱える小合沢さんにとって、偶然手に入った幻の地粉は行動を起こす十分な動機付けとなったよう。
「自家製粉を始めれば、『最先端の東京の店でも決して食べられない特別なラーメンを提供できる』とも思いました」
「確証はない」と笑うけれど、小合沢さんの胸には、「ラーメン店の中では全国で1、2番目に早く自家製粉を始めた」という自負がある。
挽きたての粉を使う蕎麦店やパン店の発想で、ラーメンにも自家製粉を取り入れた小合沢さんだったが、現在は、信州界隈で一番麦の風味が強いと感じたパン用小麦「ゆめかおり」を使用。「粗挽き麺」や餃子の皮に使っている。
「パン用の小麦なのでタンパク質が多く、麺にコシが出せるんですよ」
玄麦は地元の契約農家から仕入れている。
「粉の状態で購入するよりも粒の状態で仕入れた方が3割以上も高くついてしまうのですが、それでも自家製粉のおいしさには代えられなくて」
「熊人」で出している粗挽き麺とは、蕎麦でいうところの田舎蕎麦。
「工場で挽いたものだと、きれいに処理され過ぎてしまっていて、理想とする粗挽き麺がつくれないんですよね」
小合沢さん曰く、「ふすまや胚芽が入ってこそ、小麦の風味が際立つ」のだとか。「ふすまの部分まで挽き込んだ粉を使おうと思うと、やっぱり自家製粉という選択になってしまう」とも。
昼営業に限られ、提供杯数も50食と限定されていたことから、「熊人」のラーメンは知る人ぞ知る幻の味としてマニアたちの間で名を馳せていった。
外皮や胚芽を一緒に挽いてつくる粗挽き麺は香りや風味のよさが魅力ながら、不純物や油分を多く含む分、酸化が早いというデメリットもあわせ持つ。そのため、早めに使い切れるよう、1回に打つ量は10食分ずつと小ロットを貫いている。「たった10食分のために、あんな面倒な作業をするの?」なんてコメントは彼には野暮。すべてはおいしい麺をつくるため。小合沢さんは手間ひまを決して惜しまない。
餃子の皮にも同じパン用小麦「ゆめかおり」を使うが、こちらには粗挽き麺で使うものよりもさらに粗めの自家製粉を合わせ、味や食感にインパクトを持たせている。「純粋な小麦の風味を楽しんでほしい」という想いがあるので、餃子の皮にかんすいは使わない。
もちろん餡にも強い思い入れがある。使用する豚肉は長野県産の銘柄豚と決めているけれど、「長野県産の銘柄豚なら何でもOK」というわけではないそう。「大切に育てられていない豚肉は臭みがあって、触った後の手にも嫌な臭いが残るんです」。使用する豚肉はトレーサビリティのはっきりしている“いいとこの出”のものだけ。「見て、このきれいな豚肉。惚れ惚れしちゃうでしょう?脂が旨いのよ」。豚肉を見つめる小合沢さんの表情は、その日私に見せた一番の笑顔だった。
牧場にも年に1度は足を運ぶため、生産者から直接食材が届くことも多い。
「この間は、市場にはなかなか出回らないサフォークの骨や牛の骨が牧場から届きました。この辺りは軽井沢の高級レストランでも使われるようないい素材がたくさんつくられているんですよ。大切に育てられているから、羊白湯、牛白湯にしてもまったく臭みがありませんでしたね」
なるほど、「育ちは味に出る」。メモしておきます。
頬張った瞬間に、口の中ジュワッと弾ける肉汁。豚肉の脂の甘みと力強い小麦の風味が伝わってくる。塩と粗挽き胡椒でしっかり味付けされているので、タレはいらない。「素材に力があると、シンプルにつくっても満足感が出せるんです」。最小限の材料、最低限の味付け、無駄のないビジュアル。熊人の料理がどれもシンプルな理由は、この一言に集約されている。
――つづく。
文:松井さおり 写真:平松マキ