店頭には濛々と湯気を立ち上らせる蒸し器。点心がウリのようだけど、実体がよくつかめない……。東京都立浅草高校夜間部(正しくは、昼から夜の授業を担当する三部制B勤務)国語教師、神林桂一さんによる浅草エリアのランチ案内。今回、自作ミニコミ「浅草ランチ・ベスト100」より紹介するのは、「土日祝限定」部門の謎の多き激セマ店です。
今回は、今シリーズの9回目に紹介した「喜林」に勝るとも劣らない「激セマ・個性派」の登場だ。
店の名は「点心爛漫」。中華の点心専門店なのだが、まずこのネーミングが秀逸だ。点心の花盛りのようで、思わず食欲が刺激される。しかし、店の外観は『きたなシュラン』(フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「きたな美味しい店」)レベル(失礼!)。
黄色い看板の店は、店頭に並ぶ食品サンプルがなければ、派手な売店にしか見えない。狭い入口を入ると、カウンター5席のみ。先客の後ろを通るのもひと苦労だ。しかも、ランチどころか店自体の営業が土曜・日曜・祝日のみなのだ。
大将の花井茂さんは、実は青山にもう1軒店を持っている。「元祖 紙やき ホルモサ 新青山ビル」という紙やきと中華料理の店だ。紙やきとは、羊肉と野菜を鉄ザルに和紙を敷いた紙鍋で食べる独特の料理のこと。
大将は、日本橋「ホルモサ」(1955年創業・2002年閉店)から1978年に暖簾分けされて青山「ホルモサ」(56席)を開店した(今の日本橋の店は「旧ホルモサ」から店の名とレシピを受け継いだ「新ホルモサ」だ)。「ホルモサ」とはポルトガル語の「ポールモッサ」(美しい緑の島)で台湾のことを指しているという。元々は台湾系の店だったのだ。
「点心爛漫」(2010年開店)があるのは、かつて「ホルモサ」の点心類の仕込み場だったところ。以前は中国人の店長に任せていたが、現在は土日祝限定で大将自らが店に立っているというわけだ。
「本当はやりたくねぇんだけどよぅ、いろいろ大変なんだ、商売は」
と、下町育ちの大将はべらんめぇ口調でぼやく。
「何でもいいからよぅ、適当に書いといてくれよ」
……大将は、ざっくばらんで天真爛漫だ。
ぼやいている割には、大将はサービス満点だ。点心類も飲み物もほとんど500円均一(本格焼酎を除く)。
「餃子も小籠包も仕込んでんのは俺じゃぁなくって、中国から連れてきた点心師にやらせてんだよ」という点心類は、どれも本格的。西浅草の路地裏でこんな本物に出会えるとは驚きだ。町に増殖している東北料理系の激安食べ放題の店とはひと味もふた味も違うのだ。
しかも、青山店より1皿100円安い! シューマイは蒸籠(せいろ)に3個入りのところ、「カニとエビ、2個ずつ入れてやろーか」とか、「これ食うか?」とザーサイなどを出してくれたり。
中国では「餃子は皮を食べ焼売(しゅうまい)は肉を食べる」と言う。その通り、焼売は肉々しく、水餃子は皮が旨い。
しかし、焼き餃子は日本式だ。大ぶりの餃子の中にはニンニク入りの餡がタップリ詰まっている。これは、誰が何と言ってもビールでしょ! 土日祝なので、昼飲みも許してね。ご飯はないが、辛味噌ラーメンも500円!
大将の「天真爛漫」さは、「無邪気」という意味ではない。「飾ったり気取ったりせず、ありのままであること」(大辞泉)ということ、つまり、裏表のない気風(きっぷ)の良さ、江戸っ子の心意気のようなものが大将の魅力だと思う。
だからオヤジ客だけでなく、若い客も、女性客も集まるのだ。
餃子フリークとして有名で、自ら芸能人餃子部の部長を名乗る鈴木砂羽さんがこの店を訪れ、web「鈴木砂羽の餃子道」で「隠れ家的センベロ餃子酒場」として紹介しているのがおもしろい。
カウンター後ろの壁には、メッセージがいっぱいに書かれている(鈴木砂羽さんのも)。
当初は、全都道府県集めようと始めたのだが、最近は、パリ・カナダ・ニュージーランド・メキシコなど、欧米人のサインも目立つ。
「近くにゲストハウスとかいう安宿ができてよぅ、みんな店の前を通ーんだよ」と、言葉なんか通じなくても、大将にはまったく問題ないのだ。外国人団体が立ち飲みで厨房側まで入ってパーティーをすることもあるのだとか。
実は、平日も常連さんが不定期に店に集っている。土日祝も常連さんが勝手に手伝ったりする、愛される大将のどこまでも天真爛漫な店なのであった。
ただしトイレの扉は、カウンターの向かい側のメニューが張ってある場所なので、女性は入りにくいのでご注意を。
ここで、僕の「餃子愛」を語らせていただきたい。僕のソウルフードは餃子であり、最後の晩餐もビールと餃子に決めている。それは、母親が満州(日本の傀儡国家だった中国東北部)生まれの「引揚者」だからだ。父親は学徒出陣の「神風特攻隊」だったので、ふたりのうちどちらかが戦後日本に存在しなかったら、今の僕は生まれていない。
餃子は、戦後に満州帰りの人々によって広められたと言われる。僕は幼い頃、母の手伝いをして皮から餃子を手づくりしていた記憶があり、年季が入っているのだ!
日本の餃子の元祖については諸説あり、宇都宮や浜松は太平洋戦争前からあったと主張している。横浜野毛「萬里」(1949年創業)も焼餃子発祥の店と言われる。しかし、僕は「日本式のニンニク入り焼餃子」の元祖(少なくとも全国に広めた店)は渋谷「珉珉」(みんみん)だと信じている。僕の実体験、店で聞いた話を踏まえ、「東京現代遺跡発掘の旅」(散歩の達人ブックス)、「3度のメシより!? レバニラ炒め」(宝島社)、ブログ「とんちゃん日記~大阪・珉珉と渋谷・珉珉、そして焼き餃子」などを参考にまとめてみる。
① 満州は豚が育ちにくく、餃子も羊肉が主流だった。現在も東北料理の名店、神田「味坊」の餃子は羊肉だ(教え子が働いていました)。
② 1948年、引揚者・高橋通博氏と中国人の妻が百軒店付近で「友楽」を開店、その後「恋文横丁」に移り「珉珉」と店名を変更。1967年に京王線ガード下付近に移転、「珉珉羊肉館」(ヤンローカン)となる。僕が大学時代によく通っていたのは、この店舗になってからだ。しかし、2008年に残念ながら閉店してしまった。
③ 当時、日本でも豚肉より羊肉が安かった。そして、日本人に馴染みのない羊肉の匂いを消すために餃子の餡にニンニクを入れた(本場中国では入れない)。また、主食としての水餃子よりも、おかずになる焼餃子の方が日本人には喜ばれた。これが「鍋貼」(コウテル)、水餃子が冷めてしまったときに鉄鍋で焼き直したものだ。メニューにも「鍋貼児」(コウティアル)と書かれていた。
④ この店で餃子づくりを修業した友人の古田安夫氏が、1953年に大阪でチェーン店「元祖鍋貼餃子 珉珉」の1号店をオープン。ここからニンニク入り餃子が全国に広まっていく(店舗数が現在よりも多かった1999年は直営・フランチャイズ合計115店)。今でも餃子を注文すると、「イーガー・コーテル(1個・鍋貼)」と符丁で注文が通る。ライバルの「餃子の王将」も同じ符丁なのはどうしてだろう?
⑤ 赤坂の名店「珉珉」(1965年創業)は、渋谷の料理長が暖簾分けで独立した直系店だ。
⑥ 全国に「みんみん」という屋号の飲食店は多い。宇都宮最古の餃子屋「宇都宮みんみん」(1958年創業)も東京の評判店「珉珉」にあやかって名付けられたという。しかし、渋谷「珉珉」を起源とする店以外は「珉」の文字を使用する資格はない。なぜなら、創業者の中国人妻「陸温珉さん」の名前からひと字を取って屋号にしたのだから。日本式焼餃子誕生の陰には、こんな夫婦愛の物語も潜んでいるのだ(登録商標となっている)。
最後に、僕の「浅草の餃子ベスト5」をお教えしよう。
① 「点心爛漫」(今回紹介)
② 「十八番」(「中華料理部門」で紹介)
③ 「Gyoza Bar けいすけ」(神戸味噌だれ餃子とワイン)
④ 「餃子の王さま」(『ミシュランガイド東京』2018年度版よりビブグルマン)
⑤ 「龍王」(19時開店の夜の町中華)
文:神林桂一 写真:萬田康文