元祖「オムマキ」に「ゆであずき」とはなんぞや?浅草と焼きそばの関係とは?東京都立浅草高校夜間部(正しくは、昼から夜の授業を担当する三部制B勤務)国語教師、神林桂一さんによる浅草エリアのランチ案内。足を運んで、食べて選んだ自作ミニコミ「浅草ランチ・ベスト100」の「喫茶・カフェ」部門より、歴史ある名物が登場します。
日本最古の喫茶店は上野にあった「可否茶館」。明治21(1888)年創業である。銀座「資生堂パーラー」の前身が明治35(1902)年。今回紹介する「デンキヤホール」は、その翌年、明治36(1903)年の創業だ。「銀ブラ」(銀座でブラジルコーヒーを飲む)発祥の店・銀座「カフェ・パウリスタ」の明治44(1911)年よりも古い。「デンキヤホール」は日本の喫茶店史に残る名店だ。それだけでなく、「デンキヤホール」は“日本焼きそば史”に燦然と輝く店でもあるのだ。
焼きそばのルーツは中国の「炒麺(チャオミェン・チャーメン)」だが、塩味か醤油味で、明治時代は中国料理店でしか食べられてはいなかった。今の町中華の焼きそば(炒麺)もメインは塩ベースだ。当シリーズ「観光客の知らない浅草~浅草高校・国語教師の浅草ランチ・ベスト100~神林先生のランチ案内」でも「中華部門」の店にはソース焼きそばはない。
ところが今の子どもは、焼きそばと言われたらソース焼きそばしか思い浮かばないのではないか?なんと、すべての麺類でもっとも多く販売されているのは「マルちゃん焼きそば 3人前」(蒸し中華麺)だ。2位「揖保の糸」(乾麺)、3位「カップヌードル(しょうゆ)」(カップ麺)、4位「サッポロ一番みそラーメン」(袋麺)という兵(つわもの)揃いの中でのトップだから恐れ入る(「全国スーパーPOSデータ 2018」より)。
ソース焼きそばは、もはや家庭の味なのだ。
僕にとっても浅草の香りはソース焼きそばの香りだ。
銀座線田原町の階段を上ると「花家」が焼きそばを焼いている。
浅草の改札口を出ると浅草地下街の入り口に焼きそば専門店「福ちゃん」(「浅草ランチ・ベスト100」入り)が出迎える。そのほかにも、浅草では中華料理・お好み焼き・甘味処・喫茶店・食堂と、驚くほど多くの店でソース焼きそばを食べることができる。
当シリーズの「浅草ランチ・ベスト100」の中でも「福ちゃん」「三島屋」「芳野屋食堂」「大釜 本店」「デンキヤホール」は、その代表だ。
そう、浅草は「ソース焼きそばの町」だ。
それだけではない。浅草は「ソース焼きそば発祥の地」でもあるのだ。
少し前までは「ソース焼きそば戦後発祥説」一色だった。「終戦直後の闇市で、小麦粉は入手困難だったのでキャベツで量を増し、水っぽくなった分、味の濃いソースで補う」という形で広まったというものだ。誕生は大阪説や秋田県横手説など。
しかし、最近は戦後説は否定され、「大正末期から昭和初期にかけて浅草で誕生した」という説が有力になっている。その根拠をまとめてみよう。
① 最古と思われる記録は『近代庶民生活誌18』(三一書房)の中で、大正6年生まれの女性が子ども時代に、浅草千束の屋台でお好み焼きを食べた後に「ソースを掛けて食べる『上げ玉』。そして『焼きそば』も。」と書いてある部分だ。また、清川「大釜 本店」は昭和3(1928)年の創業からソース焼きそばを提供してきた(塩崎省吾『焼きそばの歴史・上・ソース焼きそば編』Kindle版・2019年)。
② 高見順の小説『如何(いか)なる星の下に』(講談社文芸文庫)の中で、お好み焼き「惚太郎」のメニューに「やきそば 5仙(ママ)」とある(澁川祐子『オムライスの秘密 メロンパンの謎』新潮文庫)。モデルとなった「染太郎」の創業が昭和12(1937)年、小説は昭和14~15年に雑誌「文藝」に連載された。
③ 料理研究家・小菅桂子氏の名著『にっぽん洋食物語大全』(講談社+α文庫)には「年配の中国人の料理人の中にはソース焼きそばを浅草焼きそばと呼ぶ人もいる」とある。
④ dancyuムック『ソーズ焼きそばの本』(プレジデント社・2009年)にも「広東省出身の『慶楽』の區さんのお父さんは、中国から来た人に、『これは浅草焼きそばという食べ物』とソース焼きそばをよく食べさせていた」というエピソードがある。
「浅草焼きそば」。何とも心躍るネーミングではないか!
浅草誕生説を裏付けるように、2017年にはヤマダイ「ニュータッチ 浅草ソース焼そば」、サンヨー食品「サッポロ一番 旅麺 東京浅草ソース焼そば」が立て続けに発売された。
そして「デンキヤホール」の名物「元祖オム巻き」は、なんと初代が大正時代に屋台のソース焼きそばをヒントに創作したと伝わっているのだ。「デンキヤホール」は明治36(1903)年に電気屋として創業し、数年後には甘未喫茶となる。店名の「デンキ」には電気屋という意味のほかに、「ハイカラなもの・モダンなもの」という意味も加わっている。浅草「神谷バー」の「電気ブラン」も同様で、「電気のように痺れる」というのは俗説だ。
「オムマキ」は、オムライスのライスの代わりに焼きそばを包んだもので、同店の焼きそばよりもケチャップが加わった、やや甘目のソースで炒めてある。
具はシンプルにキャベツのみ。
茶色い麺は深蒸し(2度蒸し)した色で、決してソースが染み込んだものではない(最近は少なくなったなぁ)。深蒸しすると麺の水分量が少なく、もちもちの食感となる。加えて、炒めたときに麺の表面の水分が早く蒸発し、香ばしく仕上がるのだ。
4種類の唐辛子が付いてくるのも楽しい。しかも、量もタップリで、男子でも満足だ。平日のランチタイムには定食に飲み物が付く。調理は三代目のご主人が担当しておられる。
江戸時代から盛り場や神社仏閣の境内では「ゆであずき売り」が店を出していた。もうひとつの名物「ゆであずき」は、初代がそんな屋台を見て考案したものだ。
北海道産大納言を使用し3日かけて仕込んだ「ゆであずき」は、「煮あずき」と違ってサラッとしたドリンクタイプ。
店名といい、料理といい、店のロゴといい、初代は大したアイデアマンだ。ニッポン放送の電気の仕事もずっとなさっていたそうだ。
常連には、浅草オペラの花形・田谷力三、女剣劇の浅香光代と夫の世志凡太、平山郁夫画伯などそうそうたる顔ぶれが名を連ねる。
店の向かい側の「ラーメン コント」は東八郎・貴博(東MAX)親子の実家なので、芸人のお客さんも多い。
中には五代にわたって通っていただいているお客さんもいるという。
三代目女将の杉平淑江(よしえ)さんは女優のように凛とした方で、1980年に現店主のもとへ嫁いでこられたのだが、生粋の浅草生まれ浅草育ち。よく勉強されていて、浅草の歴史にも店の歴史にも詳しく、今回の取材でも貴重なお話をたくさんしていただいた。
店がある千束通りは、今でこそシャッターが下りている店も多く、どんどんマンションなどに建て替えられていて寂しいのだが、昭和33(1958)年に「売春禁止法」で「赤線」(公認で売春が行われていた特殊飲食店街)が廃止されるまでは、浅草ロックの歓楽街・興行街と吉原とを結ぶメインストリートとして栄えていた。戦前は、毎日が「お酉様」の賑わいのようだったそうだ。全長約1,200m。昔から吉原通いの客のための飲食店や薬局は多かったが、八百屋や魚屋のような庶民生活に必要な店はなかったのだとか。
明治・大正・昭和・令和と浅草を見守ってきた「デンキヤホール」。
歴史の重みを感じさせるレトロでセンスのいい店には浅草の錦絵が飾られ、オールド・ノリタケも展示されている。店の奥には、僕らの世代には懐かしいテーブルゲーム機が3台、現役でがんばっている(僕も、まだまだがんばらなくては!)。
二代目大女将の米子さんは昨年、88歳の米寿を迎えられたが、午前中は店に立っていらっしゃる。淑江さんは、テレビ東京『和風総本家』(2018年)の「あなたの町の有名人 浅草編」で3位に選ばれておられた。浅草の祭礼行事「白鷺の舞」の舞手でもある娘さんも接客を担当しておられ、家族経営の「デンキヤホール」は、この先もずっと安泰だ。
そうそう、二代目・米子さんの妹さんが柳通りのスナック「ベニラン」を、もう一人の妹の娘さんが「カフェ ソル」を営んでおられる。こちらもどうぞよろしく。
文:神林桂一 写真:大沼ショージ/萬田康文