店の前に立っただけでも、その風情に感嘆のため息が出てしまう。一歩なかに入ったなら、ため息はさらに深いものみなる。訪れるものを途端に日常から風流の世界へと引き込む空間で、明治から続く鳥すきやきを味わい、おいしいお酒に酔いしれます。
明治30(1897)年頃創業の鳥すきやき屋へ行こう。
なんてことを、ちょっと口に出しただけで、オツな気分になるものです。
自分が、気軽に老舗を使える身分になったようで気分がいいし、鍋料理というあたりが、また、シブい。この気分、いくつになっても変わらない。
ひと言で鍋と言ってもいろいろです。この季節なら、アンコウ、クエ、カニ、そうそう、フグに牡蠣、具材も選り取り見取り。季節度外視でドジョウなんかも捨てがたい。
忘れちゃならないのが、肉です。代表格は牛でしょうか。牛肉の鍋、つまり、すき焼きですね。それから、櫻鍋。これは馬肉。ジンギスカンとなると鍋ではなくて焼肉になりますが、これは羊肉。
なんも鍋にしてまずいものはないわけですが、私は、とりわけ、鳥すきに目がない。
そう鳥肉のすきやきです。
神田須田町1丁目。ここは、その昔、連雀町と呼ばれた街だそうで、昭和20年の空襲でも延焼を免れた一角です
店の名は「ぼたん」。
並びにアンコウ鍋で有名な「いせ源」という老舗もあり、両方とも、かつてのままの日本建築。この一角へ来ると、出来合いではない、本ものの、昔の東京を垣間見ることができます。
創業は明治30年頃。
関東大震災のときに被災した店の現在の建物は昭和4年建築といいます。
玄関を入り、靴を脱いであがります。下足を預かってくれる人がちゃんといて、店内へ上がると、仲居さんが案内をしてくれる。
1階には個室もあるし、広めの部屋に、ふた組くらいが、相部屋になることもあるが、ふらりとやってきて、2階の大座敷に通されるのもいい。
ひとり、ひとりに、お膳が出て、お膳の間に、炭の入ったコンロが置かれる。灰が飛び散らないように蓋をしたコンロの上に、鉄鍋が置かれ、じゃ、始めましょうというタイミングで、仲居さんが具材を鍋に投入します。
ムネ、モモ、砂肝、レバー、皮、それから焼き豆腐に、シラタキ、真っ白なネギ。
鍋からたちまちにして湯気があがり、ほどなくして、鍋の中はぐつぐつと煮立ってくる。コップのビールをぐいっとやって、前のめりになりつつ玉子を割って小鉢の中で溶く。
「さあ、やろう!」
そんな気合をかけあって、絵描きの八っつぁん、よろず屋のお由美さんと一緒に、四角い鉄鍋にとりかかる。
ムネ肉もパサパサしていないし、モモ肉は脂ものって、ほどよい甘辛の割り下によく合う。うまい鳥を贅沢に使っていることはわかるけれど、いわゆる軍鶏とかどこそこ名産の地鶏云々というのではないようだ。けれど、それがかえってうまい。柔らかく、いかにも新鮮で、砂肝なども申し分ないし、レバーもまるで臭みがない。
シラタキは水分をよく切ってあるためか、べちゃべちゃしないし、臭みもなく、好物の豆腐の大きさもほどよく、割り下にからめ、それをまた、小鉢の溶き玉子に絡め、するりと口へ運べば、昼酒開始から15分と経っていないというのに、早や、うっとりしかかっているから、我ながら幸せ者というしかない。
――東京・神田「ぼたん」(後編)へつづく。
文:大竹聡 イラスト:信濃八太郎