ふとしたきっかけで脳裏をよぎる、あんなこと、こんなこと。けったいな人、意味深な言葉、心地いい音楽、行きずりの町。記憶は身体のどこかにしみ込み、何かの拍子に溢れてくる。そんなことを繰り返しながら感傷的になったり、刹那的になったり、享楽的になったりで、日々は過ぎていく。
先日、洛北の山の麓を拠点に活動を続ける猟師さんの撮影、取材で久しぶりに京都に行った。叡電に乗っていると、ゼロ年代の前半だったか、建築雑誌の仕事で、この辺りのとあるお寺に庭の撮影で訪れたことを思い出して懐かしくなる。
比叡山を借景にした素晴らしい石庭のあるそのお寺の住職はかなりの頑固者というか偏屈物で、もちろん事前に庭園の取材の趣旨を手紙で伝え、撮影の申込みをしておいたはずなのに、いざ訪ねてみると「どちらさん?聞いてへんなあ、そんな話」とつれない態度で、こちらもカチンときて「では、光の感じがいまとても綺麗なので、さっそくですが撮らせていただきます」と、さっさとカメラと三脚を準備しようとすると「撮ってもええけど、写らへんで」とのたまう。「こないだも何とかいう雑誌が来よったけど、何にも写ってへんかったで」。わはは、なかなかのお言葉である。内心苦笑しながら撮影を進める。
しかし「撮ってもええけど、写らへん」というのは含蓄の深い言葉ではあるな。世の中のほとんどのものは「撮ってもええけど、写らへん」のではないだろうか。これは必ずしも精神論ではなくて、いったい人は世界のどこを見ているのか、何を見ているのか、という問いかけであって、自分が写真を撮ったけど「写ってない」なあ、と思うことはしょっちゅうある。
撮影を進めている間に、住職は、同行の日本文化に詳しく、日本語にも堪能なアメリカ人の東洋文化研究者と話し込んでいる。お堂に飾ってあった古い中国の書の来歴に彼が詳しいことがわかると、さっきと態度がコロッと変わって「あんた、たいしたもんやな、これがようわかりなはるな!」と感心しきりで、ますます内心爆笑で撮影を終えた。
こういうお坊さんがいる京都という町は最高だな、と思う。「まあ、京都のお寺さんは、こういう人多いよね」と、そのアメリカ人はしれッとしていて、特に気にするでもない。そのときに撮影した写真が果たして「写って」いたのかどうかはわからないが、思い出深い1枚である。
さて、その日は猟師さんとその家族(小学生の男の子ふたりと素敵な奥さん)と一緒に焚き火をし、山を歩き、仕掛けた罠を見せてもらいながら彼らの写真を撮り、鶏小屋でとれたばかりの玉子を落としたラーメンと猪の焼き肉をご馳走になり、彼が飼っているミツバチからの蜂蜜までお土産にいただいて、送ってもらった車の中では、ニホンミツバチとセイヨウミツバチの生態と、その蜂蜜の味の違いを聞きながら町に戻った。
御所の東、賀茂川に並行して南北に走る、河原町通りに面したホテルにチェックインしてから、まだ床に就くには早い時間だったので、編集の加藤くんと飲みに行った。一軒目に行ったバーではデビッド・ボウイの古いPVが大きなスクリーンに映し出され、カウンター席でボクの隣に座る40歳くらいの女性は、大ファンなのか、何かあったのか「デビッド・ボウイ、最高やん」と涙ぐみながら酔っぱらっている。
ニット帽から渋く白髪が少しのぞいている店主はガンズ&ローゼズのTシャツを着ていた。ボクと加藤くんはワイルド・ターキーのソーダ割りを飲んだ。二軒目、その夜の〆にいったホテルの真向かいにあるうどん屋ではイギー・ポップの新譜が流れていて、店主はシン・リジーのTシャツを着ていて、ボクたちはおでんと昆布うどんをつまみに和歌山の日本酒をお燗で飲んだ。師走の河原町通り、土曜日の午後11時40分。いい町だなあ、京都。その夜、初めて聴いた72歳のイギー・ポップの最新アルバムのタイトルは「FREE」といいます。
――2020年1月10日につづく。
文・写真:大森克己