都会では見知らぬ他人と隣り合わせ、ときには肉体のどこかが触れ合いながら、近い距離でしばらく過ごすことがある。たとえば、電車の中で。時間と空間を共有しながらも、それぞれの人生が交わることは、おそらくない。日常が交錯して、さっと離れていく。そう考えると、どこかで会ったことがある、なんて思うときの可能性はゼロじゃないんだよね。
2019年12月上旬某日の日比谷線、築地駅。17時27分。
言葉は本当なんだろうか?此処で何を書くことも自由だ。嘘か本当かはわからないのだが。
写真は其処に行かなければ撮れない。撮影できない。影を撮るのだ。光が必要だ。文章は此処で綴れる。其処に行く必要はない、
言葉は常に此処にある。ドア閉まります、トーンの高い鼻にかかった男性車掌の声。日英の言葉で伝えられる、工事のため年末年始の銀座線の運休の案内の女性の声。渋谷・表参道間、青山一丁目・溜池山王間が該当の区間である。英語の発音も日本語とまったく同じアクセントで、あおやまいっちょうめ、とか、ためいけさんのう、と発音しているのが心地よい。
センスの悪い駄洒落とヒップホップで韻を踏むのは何が違うのか、文脈も響きもきっと違う。しかし、心に響くおやじギャグというものがないわけではないだろう。おやじではなく、とっくの昔に死んだシェイクスピアの台詞の朗読が役者によってはラップのように響くこともある。
前の7人掛けのシートは右から3つ目だけが空席で、6人の乗客すべてが携帯を眺めている。右から2人目の女性は自らが妊婦であることを伝えるバッジをつけてタータンチェックのマフラーを首にまき、白いモヘアのコート姿である。自分の左隣に座る50歳くらいの女性は膝の上にFUJITSUとロゴのはいったパソコンを広げてメールを書いているのが丸見えである。医療系の研究所、あるいは大学の先生であろうか。同僚、あるいは部下に、誰かに虚偽の報告をしてしまったことを詫びるためのメールの作成を依頼している。謝罪のメールは詩になりうるか?韻を踏んだ謝罪のメールは可能か?
デパートにクレームの電話をかけたら、五七五七七のリズムで謝られて面食らったことがある。かすみがせきいい~、霞ヶ関、足元にご注意下さい。3番線の電車は中目黒行きです。ドアが閉まります。次は神谷町です。
線路と車輪が擦れる。紫のダウンジャケットの衣擦れ。隣の女性は少し白髪まじりで髪が肩にかかっている長さ。縁のない眼鏡。ボクの髪が肩まで伸びて、あなたと同じ長さになったら結婚していただけますか、と話しかけてみようか?吃驚するかな。
都営大江戸線はお乗換えです。あ、六本木か。そうだ六本木だ。ボクは六本木で降りるのだ。自分のポケットのSuicaの位置を確かめて、降りる人達のいちばん最後に降りる。
現実は韻を踏んでいないが、詩は韻を踏んでいる。携帯に流れてくるyahooニュースも韻を踏まない。アフガニスタンで亡くなった中村哲さんの葬儀、ラグビー日本代表のパレード、長男を殺害した元農林水産省次官の公判、赤字国債追加発行、吉野彰さんノーベル化学賞授賞式。
ボクが降りてしまった後の電車は中目黒に本当に到着しただろうか?ボクが知らないだけで、実はバスティーユとかキャナル・ストリートに着いてしまう可能性はないのだろうか?
六本木の交差点に携帯のレンズを向けてインストールした露出計で明るさを計ればISO1600で、シャッタースピードを125分の1秒にしてみると、F3.2と表示される。光は存在し、両耳の後ろに手を添えて耳埵と耳輪を少しずつ前方に曲げて行くとクラクションやネオンサインの遠い彼方にミツバチのささやきが聴こえてくるのだ。
――明日につづく。
文・写真:大森克己