はらぺこ本屋の新井
パンケーキ越しの彼

パンケーキ越しの彼

連載第二回の新井さんは、深夜のファミリーレストランにいました。 レンジで解凍したパンケーキと、モーニングトーストの話。

草木も眠る丑三つ時、ファミレスのボックス席にゆったりと腰を掛け、ホカホカのパンケーキにナイフを入れるよろこびよ。厨房の奥で顔も見えない誰かが、こんなにやわらかくてまるくてあたたかいものを、文句ひとつ言わずに用意してくれた。この世界は思ってたほど悪くないみたいだ。どんなに真夜中でも、こうして常に誰かが働いている。これは冷凍のパンケーキだろうが、レンジの扉を開けることも、皿にのせてバターを落とし、ホイップを添えることも、見知らぬ誰かが淡々と行うからこそ、美味しすぎず、美味しいのである。むしろ味わいたいのは、パンケーキそのものではないのかもしれない。

それは『ショパンゾンビ・コンテスタント』の、ほんのささいな一場面だ。音大を中退した「ぼく」は、ファミレスで深夜バイトをしていた。友達の恋人である潮里も働いていて、「ぼく」は彼女のことが本気で好きである。

小説には描かれていないからこそ、読者はパンケーキを注文したお客になることができた。もう何時間もそこにねばって、店員同士の会話や目配せ、疲労や好意などを、感じるともなしに感じている。好きを隠せない彼を、静かに見守っている。

その何日か後、「ぼく」はなじみの喫茶店でコーヒーを飲み、ジャム抜きトーストをオーダーしていた。《厚切りにされたふかふかの食パンの繊維のあいだにバターの溶けゆくながれ。》こうして人間は、くるくると役を交代しながら、なんとか生きている。ここでは「喫茶店のひと」になって、どうやら深く思い悩んでいる彼を見守っていよう。それにしても君、ひどい顔をしている。今日くらい、バイトを休んでもいいんじゃないか?

今回の一冊 『ショパンゾンビ・コンテスタント』町屋良平(新潮社)
音大を中退した小説家志望の「ぼく」、同級生は魔法のような音を奏でるピアニストの卵。その彼女の潮里に、ぼくは片想いしている。才能をもつ者ともたない者。それぞれが生身のからだをもって何百年という時間をこえ体現する、古典を現代に生き継ぐことの苦悩と歓び。才能と絶望と恋と友情と芸術をめぐる新・青春音楽小説!

文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子

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新井 見枝香(書店員・エッセイスト)

1980年、東京生まれ下町(根岸)育ち。アルバイト時代を経て書店員となり(その前はアイスクリーム屋さんだった)、現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。独自に設立した文学賞「新井賞」も今年で10回目。著書に『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)など。