草木も眠る丑三つ時、ファミレスのボックス席にゆったりと腰を掛け、ホカホカのパンケーキにナイフを入れるよろこびよ。厨房の奥で顔も見えない誰かが、こんなにやわらかくてまるくてあたたかいものを、文句ひとつ言わずに用意してくれた。この世界は思ってたほど悪くないみたいだ。どんなに真夜中でも、こうして常に誰かが働いている。これは冷凍のパンケーキだろうが、レンジの扉を開けることも、皿にのせてバターを落とし、ホイップを添えることも、見知らぬ誰かが淡々と行うからこそ、美味しすぎず、美味しいのである。むしろ味わいたいのは、パンケーキそのものではないのかもしれない。
それは『ショパンゾンビ・コンテスタント』の、ほんのささいな一場面だ。音大を中退した「ぼく」は、ファミレスで深夜バイトをしていた。友達の恋人である潮里も働いていて、「ぼく」は彼女のことが本気で好きである。
小説には描かれていないからこそ、読者はパンケーキを注文したお客になることができた。もう何時間もそこにねばって、店員同士の会話や目配せ、疲労や好意などを、感じるともなしに感じている。好きを隠せない彼を、静かに見守っている。
その何日か後、「ぼく」はなじみの喫茶店でコーヒーを飲み、ジャム抜きトーストをオーダーしていた。《厚切りにされたふかふかの食パンの繊維のあいだにバターの溶けゆくながれ。》こうして人間は、くるくると役を交代しながら、なんとか生きている。ここでは「喫茶店のひと」になって、どうやら深く思い悩んでいる彼を見守っていよう。それにしても君、ひどい顔をしている。今日くらい、バイトを休んでもいいんじゃないか?
文:新井見枝香 イラスト:そで山かほ子